第2話
◇
『あなたは誰?』
何度こう問いかけただろう。
一度も答えてくれたことのないその女性に、今もまた同じ言葉を投げかける。
だが彼女は身動き一つしない。ただじっと石壁を向いている。
『あの!』
それでも声をかけてみる。彼女は人形ではなく、命ある美しい女性だと知っているから。
『俺を見て!』
叫ぶように言えば声は届きそうな気がしたが、やはり彼女は振り向いてくれない。
あれは夢だったのだろうかと、夢の中で訝しむ。
大きな澄んだ碧の瞳、磁器のような滑らかな白い頬、色付いた蕾のような唇……感情の知れない視線で彼女がこちらを真っ直ぐに見たのは幻だったのだろうか? 誰なのか知りたいと思う欲求が見せた、ただの幻想だったのだろうか?
それでもいい。もう一度見たい。彼女と視線を合わせたい。
肩に触れて揺さ振りたい衝動に駆られたが、夢の中に自分の体はない。伸ばそうとする手はどこにもない。もどかしさに苛立ちが募る。
ひょう、と背後で風が鳴いた。
そうだ、風だ。彼女は風の気配を辿って後ろを振り返った。
この風にも気がついて。そして振り返って。
もう一度風が鳴いた。
彼女の金の髪が二度目に踊ったとき、顔にかかる髪を払いもせずにゆっくりと振り返ってこちらを見た。
言葉など出なかった。
何と儚げで美しい女性だろう。じっとこちらを見る視線に囚われ、言葉を発するどころか視線を外すことすらできなかった。
胸に湧き上がる、説明しがたい感情。重く苦しい圧迫感と、甘く歓喜に満たされる暖かさ。全てがない交ぜになって痛いほどだ。
『あなたは……』
無理に絞り出した声は震えて掠れていた。
一呼吸置いて高鳴る胸を鎮め、もう一度そっと囁いた。
『あなたは……誰?』
無表情のまま、ただ見つめてくる彼女には、やはり声は届いていないのかもしれないと思った矢先、碧の瞳がゆらりと歪んだ。
何を思う間もなく、涙が零れ落ちた。
淡い月光を反射して一瞬輝いた、宝石のような一粒。
静かな感情を目の当たりにし、胸が掻き毟られるような痛みが走った。息ができないほど心を締めつけられる。そのまま自分も泣いてしまいそうな悲しみに襲われる。
思わず自分の胸に手をやり、服を握り締めた。実体はないから、そんなつもりだっただけかもしれない。
苦しさに喘ぐと、彼女の姿が何だか薄れたように感じた。息を詰め、乱れた呼吸を繰り返すうちに、彼女は次第に透き通っていき、最後には辺りと一緒に滲んで消えた。
『待って! まだ――!』
息ができなくなり、崩れ落ちた気がした。
◇
「お早うございます、ヒスイ、様……?」
いつまでも寝ているヒスイを起こしにミオが寝室へ入ったとき、ヒスイはとうに目を覚まして起き上がっていた。しかしその目はぼんやりとして焦点を結ばず、そして両手はなぜか左胸に当てられていた。
「どうかなさいましたか?」
言いながら近づくミオを、ヒスイは視界に捕らえた。
「あぁ、ミオ。お早う」
「お体の具合がよろしくないのですか?」
ヒスイはミオの視線を辿って、手を当てた自分の胸を見下ろした。
「いや、何ともない」
言って手を降ろしつつも、まだどこかぼんやりとしている。
訝しげに主人を見ながら、ミオは言った。
「あまり大丈夫そうには見えませんが」
寝起きとはいえ、快活なヒスイが気だるげにじっと座ったままなど、かつてなかったことだ。
子供の頃なら、跳ね起きてそのままどこかへ飛んで行くような元気があったが、さすがに今ではミオの躾もそれなりに行き届いている。だが、変に大人しいヒスイを見るのは初めてだった。
寝相が悪くて風邪を引いたか、あるいは腹を冷やして腹痛を起こしたか。
思いつく原因が子供染みていて、ミオは心の中で苦笑した。
「お加減が悪いのでしたらそのままお休みになって下さい。医師を呼んで参ります」
「あぁ、いや、いいんだ」
ヒスイは片手を挙げてミオを止め、そのまま大きく伸びをした。
「ふあぁぁ。あー、腹が減った」
大きな欠伸と共に、ヒスイはいつものヒスイに戻ったようだ。
「ヒスイ様?」
怪訝な顔のミオをよそに、ヒスイは寝台を降りて着替えを始めた。
「ミオ、メシ」
上着のボタンを留めながらちらりとミオを見れば、ミオはまだヒスイを観察している。
「ミオ。メシは?」
「あ、はい。すぐに」
後ろ髪を引かれるような思いで寝室を後にし、ミオは朝食の準備を始めた。
厨房から運んできたトレイに乗せた朝食をテーブルに並べていく。パンやハムやチーズなど、種類は変わっても毎朝同じメニューで食事を取る。もしも体調が優れないのなら、もっと温かで消化に良い物の方がいい。今からでも作り直してもらうべきだろうか……?
途中まで並べた食器を見つめて止まっているところへ、ヒスイの手が伸びてパンを一つつかんだ。
「いただきまーす」
はぐはぐと口一杯に頬張って、ミオに片手を差し出した。グラスを持つようにし、傾ける仕草をする。
ミオはすぐにグラスにミルクを注いで手渡した。
ヒスイはそれを一気に飲み干した。
「ぷはぁっ」
どう見てもいつものヒスイだ。具合が悪そうな様子など微塵もない。
ミオはため息を吐いた。
取り越し苦労であればそれでいい。が、妙な心配をかけさせないで欲しかった。
こう見えて王位継承者だ。病気ひとつで一大事となる。ましてや元気が取り柄のヒスイが何やら沈んでいるとなると、天変地異の前触れかと不安になる。
「ヒスイ様。立ったままで何ですか。それに手掴みで」
そう言ったときにはヒスイはもう着席し、片手にフォークを持っていた。ミオの小言を封じる、ヒスイの素早い変わり身だ。
「パンは素手で食べるもんだろう」
言いながらフォークでパンをひとつ刺し、一口齧った。
「いえ、そういう意味ではなく」
「卵は? 今日の卵、何?」
ヒスイはミオの小言を無視して訊いた。
「今日はチーズ入りのオムレツです」
途中で水を差されてそれ以上続けられなくなったミオは、いささか胸にわだかまりを持ちながらも、まだ温かな皿をヒスイの前に置いた。
「美味そう! 俺、これ大好き」
トロトロの半熟になった卵の上で、チーズがとろけて絡み合っている。真ん中へフォークを刺して切り分けると、チーズが柔らかく伸びた。
「溶けたチーズって何で滅茶苦茶美味いんだろうな」
ご機嫌なヒスイには悪いが、ミオは生憎チーズは苦手だった。同意しかねて曖昧に返事をするも、ヒスイははなからミオに言ったのではないらしかった。
伸びるチーズを目を輝かせて見、口に入れてから嬉しそうに咀嚼する。それを眺めながらミオは、子供のようだな、と思った。年齢から考えてもっと落ち着きがあってもよさそうなものだが、とも思った。
天真爛漫と言えば聞こえはいいが、大らか過ぎてついて行けない時がある。同じ年頃の青年たちならば、社会での立ち位置に重きを置き、世間の風潮や色恋を語るものだ。かくいう自分もそうであったし、その当時も今もそれに変わりはない。だがヒスイは何にでも興味を示して突っ走る傾向がある。庭園の桃の木を狙っていち早くもぎ取ろうとするとか、その桃のジュースを気に入り、一週間ほど毎食要求するとか、城の兵士たちに全戦全勝するのだと言って任務を放棄させ、剣を交えるなどなど、大なり小なり数え上げればきりがない。チーズ入りのオムレツで目を輝かせるのはまだ可愛いものだが、これで王位を継いだらこの国はどうなるのやら、不安反面、楽しみでもある。
などとつらつら考えながら、次に茹でた野菜にソースのかけられた冷たい皿を出そうとして手が止まった。
残り一口を残したオムレツをフォークでつつきながら、ヒスイはどこか遠くを見ていた。部屋の一点でも窓の外でもなく、言うなれば夢か記憶を頭の中で見ているようだった。