第1話
薄暗い部屋の中央に人影がある。月明かりを背に浴び、長く緩やかに波打つ金色の髪を淡く輝かせている。
その人影は赤黒い絨毯の上に座り込み、何もない石壁を向いている。
何を見ているのだろう?
そこには絵もなく、窓もなく、ただ冷たい色をした壁があるのみ。
人影は微動だにしない。白いドレスから覗く小さな足も白く、血が通っているとも思えない。
人形?
そう見えるほど、この人影は生気に欠けていた。
『あなたは誰?』
そう呼びかけても振り向きもしない。声が聞こえていないのか、聞こえていても振り向かないだけか。
『何を見ているの?』
もう一度呼びかけてみるが、やはり動きはない。女性のように見えるこの人影は、この場所に据えられた人形なのかもしれない。
そよ、と金の髪が風に揺れた。
窓が開いていたらしい。微弱な風はかすかに髪を揺らし、そして消えて行った。
つ、と人型の頭も揺れた。
風に煽られるほど強くは吹き込まなっかたのに。
頭は揺らめいて、ごくゆっくりと後ろを振り返る。
そして月の光を受けて浮かび上がったのは、美しく儚げな白い顔。大きな碧の目に、やや赤みの差したふっくらとした唇。だが頬に血色はなく、やはり人形のような印象を受けた。
彼女は真後ろを向き、そして真っ直ぐに視線を合わせた。
心臓がどきりと跳ねた。
彼女の小さな唇が動いたような気がしたが、何も聞こえてこなかった。
◇
ヒスイは目が覚めても寝台に横たわったまま、しばし天井を眺めて思い返していた。
子供の頃から時折同じ夢を見た。
寂しげな部屋に金色の長い髪の人がいる。問いかけても答えはなく、身動きもしない。誰なのか気にはなったが、調べる術はなかった。いつも後ろ姿だけを眺め、そしてもどかしいまま夢は終わる。
しかし今日は違った。金色の髪の人はこちらを振り返った。人形ではなく、若く美しい女性だった。言葉は交わせなかったが、確かにこちらを見て視線を交えた。
何か言ったようだったが、残念ながらそれはわからなかった。
何を言ったのだろう?
そして、彼女は誰なのだろう?
◇
「なぁ、ミオ。同じ夢を何度も見るってあり得ると思うか?」
空になった皿を下げかけて、ミオと呼ばれた男はヒスイに目を向けた。
「同じ夢を見るのですか?」
「うん。子供の頃からずっと同じなんだ。しかも今日はちょっとだけ進行してた」
「夢には潜在的な意味があるそうです。悩み事か何かの現れなのでは?」
言いながらミオは汚れた皿を下げ、代わりに切った果物を盛った皿と、温かいミルクの入ったカップを置いた。
「悩み事かぁ……」
夢にまで現れるほどの悩みなどあったろうか、と考えてみる。
特に取沙汰すような悩みなど思い浮かばない。と言うより、悩みそのものが思いつかない。
「それって子供の頃からずっと持ってる悩みってことだろ? そんなもんあるかなぁ?」
首を捻るヒスイに、ミオは銀縁の眼鏡を押し上げて涼しい顔で即答した。
「あぁ、それはないですね。私の勘違いでした。申し訳ありません」
ヒスイはムッとして、後ろに控えて立っているミオを振り返った。
「何か嫌味に聞こえるんだけど?」
「気のせいです」
「俺にだって悩みぐらいあるんだ」
「おや、どんな?」
ヒスイはすぐには答えられず、果物にフォークを刺して口に入れた。勢いで反論したものの、思い当たるものは何もないと今実感したばかりだ。口の中のものを咀嚼しながら、何か悩むようなことはないかと考えた。
ミオは大した悩みなど出てこないとわかっていて、ヒスイが何を思いつくのか待った。
「あ、そうだ」
コクリと果物を飲み込み、フォークをミオに差し向けて無邪気にヒスイは言った。
「ミオがうるさい」
ミオはがっかりしたのと同時に、少しだけ悲しくなった。
考えた末に出てきた悩みが、単に叱られることであり、良かれと思って進言したそれをうるさいと思っていたとは。
「ヒスイ様、フォークを振り回さないで下さい」
諦めと、若干の不機嫌を声に滲ませて呟くように言えば、
「ほらな」
と、ヒスイは他人事のように声を上げた。
「お行儀が悪いですよ。もうじき成人しようという王子が、そんな子供みたいな振る舞いでは先が思いやられます」
ミオは自分の台詞が小言なのか腹いせなのか、一瞬判断がつかなかった。自分の主人に腹いせなどおこがましい、と無理やり小言の方を選んだ。主人を叱る従者というのもおこがましい、とは思っていなかった。
ヒスイは出会った頃から、ミオに主人然とした振る舞いなどして見せなかった。
ミオはヒスイが十歳のときに侍従――というより話し相手として仕えた。六つ違いのミオもまだ子供の域を出ない少年だったから、人懐っこいヒスイの性格もあって、二人は兄弟のように親しんだ。今でこそ立場を弁えてはいるものの、その線を行ったり来たりしていることにはあまり気がついていない。
「いいじゃないか、今はミオしかいないんだし。公の場に出ればちゃんとするよ」
「日頃の行いは咄嗟に出るものです。普段の心がけが大事です」
ちっ、うるさいな、と漏らせば、すぐに窘める声が飛んでくる。
「舌打ちは下品ですよ」
何を言ってもやっても自分が不利なだけだと、ヒスイは早々に折れた。
「はいはい。ミオ先生には敵いません。すいませんでした」
口一杯に果物を頬張り、やけくそになってあっという間に平らげた。
ミオもこれ以上は八つ当たりのような気がして、口を閉ざした。
食べ物を掻っ込んで食べないとか、袖で口を拭かないとか、口に物を入れたまま席を立たないとか、言いたいことはあったが我慢した。
だが、言わずにいられないことははっきり言った。
「ヒスイ様。この部屋でだらけていても多少は目を瞑りますが、外へ出る時にはその寝癖は直して下さい」
ヒスイはガシガシと頭を掻き回し、寝癖よりもっとひどい、爆発したような頭にした。
「だからミオみたいに短くしたいんだよ」
ミオは櫛もいらないほどに短く切っていたが、ヒスイはやや長めにして後ろへ流していた。だから寝起きは大抵鳥の巣状態だ。
「ヒスイ様の黒髪は王妃様譲りですから」
この国に多い黒髪の中でも王妃の黒髪は一段と艶やかで、風に靡く様が音を立てるかのように美しく、天使の戯れと謳われていた。ヒスイが幼い頃に美しい盛りの王妃は病で亡くなったが、その黒髪はヒスイに受け継がれていた。
手間のかからない様に短くしたいヒスイだったが、王妃を心から愛していた父王が泣いて止めるので、やむなく今の長さで妥協したのだった。
「母上の髪が綺麗だったのはわかるけど、男の俺が綺麗って言われても嬉しくないし」
「王妃様はその御髪だけでなく、立ち居振る舞いもお美しかった……」
ヒスイの文句を無視してうっとりと遠くを見遣るミオは、王妃の話題になると手放しで褒め称え、夢見るような眼差しになる。
「母上が好きだったのか?」
と問えば、
「国民みんなが王妃様をお慕いしておりました」
とはぐらかすように答える。
本当はすぐ近くにいて、恋情のようなものを抱いていたのではないかと、ヒスイは密かに勘繰っている。
「ヒスイ様は御髪も面差しも王妃様によく似ておられる」
眩しい物でも見るように目を細めるミオは、ヒスイを通り越して亡き王妃を見ているようだった。
父王も時折そんなことを言った。だからなおさら黒髪を切らせたくないようだった。
だが、母の面影を残したヒスイでも、母どころか父にも似ていない部分が一つあった。
大抵が緑の瞳――わずかに青色、稀に水色――を持つ国民の中で、ヒスイだけは黒の瞳を持って生まれた。どこの血が混ざったのか見当もつかない、深い夜のような黒。光に当たるとやや青みがかって紺色にも見えるその瞳は、どの国にも見られない色だった。
世界でただ一人、その尊さから神の申し子だと謳われたヒスイだったが、その実、自由奔放でやんちゃな、手のかかる子供と全く変わりなかった。
そのまま大きくなったヒスイは、だからミオに小言を言われてばかりなのだ。
「ミオ、思い出に浸るのもいいけど、俺、これから兵士たちと手合わせするんだ」
思い出話に付き合っている暇はない、と言外に匂わせば、ミオははっとして慌ててテーブルの上を片づけた。