祖父とヨウタ
『空の座』の番外編です。こちらの一編でも話が通じるようには書いているつもりですが…。
「じいちゃんみたいに強くなるには、どうしたらいいの?」
小学生だったヨルムは祖父にそう尋ねた。
「じいちゃんの教えている武術は、体が小さくても、自分より大きな相手を投げ飛ばせるんだよね? じいちゃんの教えている武術なら、それが出来るんだろう? だからそれをおれに教えて。強くなって、あいつらを見返してやりたいんだ」
祖父は武術の道場を開いていて、教えている弟子もたくさんいた。
幼かったヨルムは、単純に同級生とのけんかに負けたくなくて、そう聞いたのだ。
道場で弟子たちに武術を教えている最中だった祖父は、家に帰ってきて開口一番そう言った孫を呆気に取られて眺めていた。
「強くなりたい、か。ヨウタも男の子だからな」
祖父はヨルムのことを、何故かヨウタと呼ぶ。
その呼び方はヨルムがもっと小さい頃から、祖父がずっと使っている呼び方だった。
ヨルムは頬を膨らませる。
「じいちゃん、おれの名前はヨルムだよ?」
「はっはっは、わかってるよヨウタ」
「だから、ヨルムだって!」
いくらヨルムがむきになって訴えても、祖父は頓着しない。
のんびりと応じるだけだった。
そのためヨルムは半ば祖父のその呼び方を、諦め半分に受け入れていた。
「わかった。ヨウタが習いたいと言うのなら、武術を教えよう」
「本当に?」
ヨルムは目を輝かせて祖父を見る。
祖父は小さくうなずく。
「ヨウタは将来強くなるぞ? 何と言ってもわしの孫じゃからな」
祖父は快活に笑う。
孫の頭をその大きな掌で撫でる。
「それで、ヨウタ。ヨウタは強くなって、その友達を見返して、それからどうしたいんだ?」
「え?」
ヨルムは口をぽかんと開ける。
「どうしたいって、どういうこと?」
目を白黒しているヨルムを祖父は真っ直ぐに見つめる。
「ヨウタは何のために武術をやりたいんじゃ? その友達に勝って、それからもじいちゃんの教える武術を続けるのか? それとも友達に勝ったら、武術はやめてしまうのかい?」
「えっと」
祖父に問われ、ヨルムは口ごもる。
武術を習って強くなったその先のことは、まったく考えていなかった。
困るヨルムに、祖父は優しげに笑う。
「すぐに答えを出す必要はないが、心の隅に留めておきなさい。ヨウタがじいちゃんの武術を習いたいと言うのなら、じいちゃんは大歓迎だからいつでも教えよう。けれど、ヨウタがけんかに勝ちたいと言う理由だけで武術を習うのなら、じいちゃんは少し悲しいな」
ヨルムはじっと黙り込んだ。
長い間考えても、武術を習う別の理由が思いつかなかった。
祖父から武術を習って間もなく、ヨルムの腕前は学校に知れ渡り、同級生にからかわれることはなくなった。
今まで絡んでいた同級生はヨルムに近付こうとさえしない。
ヨルムははじめの目的は叶ったのだが、その後も黙々と武術の鍛錬を続けた。
何のために武術を習うのか。
その問いはずっとヨルムの心にひっかかっていた。
「じいちゃんはどうして武術をやってるの?」
ある時、気になったヨルムは祖父に問い掛けた。
夏の暑い季節だった。
青い空に白い雲がかかっていた。
家の軒下には丸いガラスの鳴り物、祖父が故郷から持ってきた風鈴、というものが下げられている。
それが風に吹かれ、ちりちりと高い音を立てている。
「じいちゃんか? じいちゃんはなあ」
ヨルムの向かいに正座する祖父は、白く禿げ上がった頭をなでる。
「じいちゃんは、もうなくなってしまった故郷のために、そこの武術を少しでも多くの人に知ってもらうために、ここで道場を開いたんだ」
ヨルムは小さい頃は正座が出来なかったので、小さな椅子を持ってきて祖父の向かいに座っている。
「ふうん」
汗をかきながら、ヨルムはガラスコップを手に、祖父お手製の冷えた麦茶をちびちびと飲んでいる。
祖父は興味のなさそうな孫の顔を見ながら、昔を懐かしむように遠い目をする。
「祖国が、鈴牙国が無くなってしまった時、じいちゃんはまだ若かった。鈴牙国がいよいよ沈むとわかった時、鈴牙国の全国民に向けて、祭祀長様からお言葉があったんじゃ。国を捨てて、逃げろ、と。じいちゃんは家族と一緒に国を捨てたんじゃ。その頃じいちゃんはまだ若くてな。武術は父親から習っていたものの、真面目に取り組んではいなかった。あの時こそ、武術を真面目に取り組んでいれば、と後悔したことはなかったよ」
「どうして?」
ヨルムは祖父の話がわからないながらも、首を傾げる。
「どうしてって、それはそうじゃろう。じいちゃんの故郷は無くなってしまったから。じいちゃんは鈴牙人とは名ばかりの、国を持たない民になってしまったんじゃ。国も土地も失ってしまったじいちゃんに、一体何が残っているのか。じいちゃんはじいちゃんなりに一生懸命考えた。国の人々も散り散りになり、鈴牙人の誇りも文化もこのままでは失われてしまうかに思われた。何か自分が出来ることはないかと考えたのじゃ。じいちゃんには、父親から教えてもらった武術しかなかったからな。勉強も何も、他に得意なことはなかったんじゃ。じいちゃんに出来ることは、鈴牙国の武術を広め、後世に伝えていくことしか思いつかなかったんじゃ」
ヨルムはごくりと麦茶を飲みこむ。
「じいちゃんは住んでいた国が無くなってしまったから、逃げるのは仕方がないんじゃないの? でも、国ってそんなに大事なものなの? 国が無くなっても、じいちゃんは生きているじゃない」
心の底から不思議そうに聞いてくる孫に、祖父はしばし渋い顔で黙り込む。
「いいかい、ヨウタ。確かにじいちゃんはここで生きている。けれど、じいちゃんの故郷には、また別の意味もあるんじゃよ。国が大事か、と言うことは、ええと、何と説明すればいいのかのう。ヨウタはラース人の血を引いているから、その身分はラスティエ教国によって保障されている。もしもヨウタを傷つける者が現れても、その者はラスティエ教国の法律によって裁かれる。もしもヨウタが他の国を訪れている時に何かあっても、ラスティエ教国の大使館が助けてくれる。つまり、国とはそんなものだ。ヨウタに何かあった時に、とっさに助けてくれるのが国なんだ」
「ふうん、よくわからないや」
ヨルムは黒い目をぱちぱちとまばたきする。
特に関心もなさそうに麦茶を飲んでいる。
祖父は困り顔で白い頭をなでる。
わざとらしく咳払いをする。
「話がそれたが、じいちゃんは鈴牙人として、鈴牙国の文化を後世に伝えておきたかったんだ。国がなくなっても、鈴牙人の誇りは失くしたくなかった。言葉と文化が失われて、民族としての誇りが失われれば、その時点で本当に鈴牙国が無くなってしまうとじいちゃんは思ったからだ。わしはどうしてもそれは避けたかった。国に残って、土地とともに死を決意した人々のためにも、わしはどうしても生き残って、鈴牙人としての文化を伝えたかったんじゃ。それがせめてもの死者の手向けになるかと思ったから」
祖父の白いまつ毛が細かく震え、一筋の涙がこぼれる。
感極まった祖父は、手の平で顔を覆う。
「この年になると、昔のことが色々と思い出されていかんな。涙もろくなるわい」
後で両親に聞いた話だが、祖父の友達の何人かはその時に国とともに沈むことを決意したらしい。
若い頃の祖父は酒を飲むとよく、あの時死にそびれたわい、と笑いながらつぶやいていたという。
結局、祖父が武術を続けている理由は、その時のヨルムにはよくわからなかった。
祖父が武術を教えているのは自分のためではない、と言うことは何となくわかった。
鈴牙国の武術を後世に伝えていくことが、どれほどの価値があるのか、ヨルムはまだわからない。
若いヨルムには、祖父の言うことはわからないことだらけだった。
ただ季節の移り変わるごとに、祖父が四季をめでる楽しさは、何となくわかった。
春の桜の花びらが舞い散る木の下で酒盛りをしたり、夏の夜に花火を見ながら騒いだり、秋に月や紅葉した木々を見ながらお菓子を食べたり、冬は雪を見ながら温かい鍋をつついたりした。
「鈴牙人は、昔からこうやって四季を楽しんだものだ」
祖父はそう言って、四季折々の自然の美しさを愛で、自家製の酒をちびちびと飲んでいた。
祖父は何気ない毎日を楽しんでいた。
――おれもいつかじいちゃんみたいになりたいな。
いつの頃からか、ヨルムは漠然とそう思うようになっていた。
武術を続けているうちに、徐々にそれが楽しくなってきたし、修行も苦ではなかった。
それに何より、強くなるのが実感できてうれしかった。
けれど、兄弟子に試合で負ければ悔しいし、弟弟子に指導するのは照れくさかった。
ヨルムはいつか祖父の山敷流武術の後継者を目指して、現在も修業に励んでいる。
最近始めた滝に打たれるという修行も、精神を集中するのに向いている。
ヨルムは朝早く山に登り、ごうごうと水の流れ落ちる滝つぼで、滝修行に勤しんでいる。
当面の悩みは、祖父に勧められた、ふんどし一丁、という格好で滝に打たれていると、山を散歩している人に変質者と間違われることだった。
変質者と間違われるのは何とかしたいと悩む、ヨルム・シュハイム・山敷・ガラグリギヤ・李・ミシェイル(以下略)の十八歳の冬のことだった。
彼はジョゼ神学校で剣術部を立ち上げ、その主将として剣技の鍛錬に励んでいる。