記憶
維月は、確かにびっくりしたものの、その感覚に何か覚えがあるような気がした。しかも、相手は維心であったような気がする…なので、最初はとても怯えていたが、その深い記憶のおかげでパニックにならずに済んだ。
維心は、気遣わしげに維月を見た。
「…大丈夫か?主…我が嫌になったのではないか?」
その表情があまりに真剣であったので、維月は思わず微笑んだ。そして慌てて表情を引き締めた。
「その…維心様であったので、驚きましたが嫌ではありませぬ。婚姻とは、こういうことでございましたのね。誰も教えてくれなかった。」
維心は、ホッとしたように息を付いた。
「あまり、大きな声で言うのは憚られることであるのでな。我も巻物を読まされたので知っておっただけのこと。あれがなければ、おそらく知らなかったであろうの。」と、起き上がった。「では、準備をせよ。父上にご報告に上がらねばならぬのだ。そして月の宮にも通達される…主は我の対に部屋を設えさせるゆえ、そこへ住むことになろうぞ。」
維月は、頷いたが、言った。
「ですが…十六夜と話さねばなりませぬ。十六夜は、私に夫が出来るのは決まっているのだから仕方がないが、必ず言えと言っておりましたの。怒ると大変なのですわ…一度、月の宮へ参らなければ。」
維心は頷きながら、起き上がった。
「我は碧黎殿に挨拶に参らねばならぬので、その折り共に参ればよかろう。さあ、着替えるのだ。主を早く我の対へ連れ帰りたい。」と、少し表情を曇らせた。「…洪にも、伝えてやらねば。」
維月はハッとした。そういえば、洪の病状が思わしくないと聞いている。維月を妃と勘違いして、涙を流して喜んでいたのだ…婚姻が成ったと知ったら、きっと喜んでくれるであろう。
維月は頷いた。
「はい。すぐに参りましょう。」
将維は淡々と報告を受けて、月の宮にも連絡すると言っていた。もっと喜んでくれるかと思っていた維月は驚いたが、常はこんな感じらしい。維心はそう気にする風もなく維月を連れてその場を辞した。
そしてすぐ洪の部屋へ向かうと、洪は寝台に横になっていた。呼吸をするのも苦しそうだ。
しかし、維心と維月が入って来たのを知ると、微かに微笑んで起き上がろうとした。維心は慌ててそれを制した。
「よい。主に我が妃を見せに参っただけのことぞ。」と、維月の手を取った。「洪、我が妃、維月ぞ。」
洪は涙を流して頷いた。
「さもありましょう、維心様。我は、話さねばならぬことがございます。」
維心は洪を気遣わしげに見た。
「無理をするでない。いくらか良い時に聞くゆえ。」
洪は首を振った。
「我は長くありませぬ。どうしても、お話せねば…」
と、洪は、首に掛けられた紐を手繰った。そしてその先に付いている巾着を、震える手で開け、中から光る銀色の輪を出して、維心に手渡した。
「お生まれになった時、維心様がその左手にしっかりと握り締めていらした物でございます。」
維心はそれを見つめた。体に電流が走ったように思った。
「これは…?」
維月が、口に手を当てた。そして、懐から同じような巾着を取り出すと、中から同じ輪を出した。
「私が生まれた時にも、これを左手に握り締めていたと持たされました。同じ物ではありませぬか…?」
洪は微笑んで何度も頷いた。
「我はこれを見て、王が転生なされたと確信しもうした。我が王よ、それは前王維心様が、人であられた妃のために、人世で買い求められたもの。婚姻の証、いつまでも共にと。」
維心は内側を見た。永久に共に、維心・維月と彫ってある。それは、維月の物も同様だった。
洪は続けた。
「王は亡くなられた時、これをお持ちになったのです。亡骸にはいくら探しても、指輪はなかった。あれほど肌身離さず着けておられたのに。それでも、将維様が王を普通にお育てするためには、知らぬ方が良いと思うて、我が今まで持っておりました。お渡し致します、我が王よ。」
維心は目眩を感じた。体の奥から、何かが沸き上がって来る。そう、記憶。これは記憶だ。
同じように、横で維月がフラフラと倒れ込んだ。維心はそれを支えようとして、そして、自分もそのまま気を失った。
十六夜は、月の宮で維月の婚姻が成ったことを知らされていた。十六夜は蒼を睨んだ。
「…なんでぇ、結局あいつじゃねぇか。そんなことになりそうだとは、父上も全くオレに知らせずによ。」
蒼はため息を付いた。
「あっちがどう思うかわからなかったじゃないか。だからだろう。」
十六夜はフンと横を向いた。
「維月を要らねぇなんて言うやつが居る訳ねぇだろう。そうと分かっていれば、何が何でもあっちに残ったのによ。あいつ…どれだけびっくりしたか。」
蒼は、それは婚姻の夜のことを言っているのだと思って、確認しておこうと思った。
「十六夜は、知ってるのか?婚姻がどんなものかっていうのを。」
十六夜は頷いた。
「知ってるよ。オレの友達は人の世から来た神が多いからな。知らねぇで居るほうが難しい。だが、維月は何も知らなかった…だから、オレだって共に寝ることがあっても何もしなかったんだしな。だが、あいつはそれをしやがったんだろう。」と眉を寄せた。「だからわかっててもムカつくんでぇ。」
蒼はまた、ため息を付いた。本当なら一人に一人の妻なのに。転生したから、知らなくてもこうなってしまうのだろう。
蒼は、維月が握り締めて転生して来た指輪を思った。きっと、母さんだって望んでたことなのだ。ただ、覚えていないだけで。
十六夜が立ち上がったかと思うと、ふらふらと膝を付いた。蒼はびっくりして十六夜に手を差し出した。
「十六夜!どうした?」
十六夜は視点が定まらないようだ。
「なんだ…?なんかが浮き上がって来やがる…奥の方から…!」
「十六夜!」蒼は叫んだ。「碧黎様!十六夜が!」
碧黎には、その名を呼ぶだけでどこに居ても繋がる。蒼は倒れた十六夜を抱き留め、瞬間的に現れた碧黎と共に寝台へ運んだ。
記憶が、流れ込んで来た。
生活は、穏やかなものだった。
毎日会いに来る者で屋敷はごった返したが、それもこちらへ来てしばらくしたら落ち着いた。
相変わらず、十六夜と二人で維月を分け合うような形にはなっていたが、それでも何も煩わしい事はなく、維心は幸せだった。
そうして20年ほど経ったある日、見覚えのある人型が訪ねて来た。それが碧黎だと気付くのに、時間は掛からなかった。碧黎は、十六夜と維月に言った。
「主らが休んでおる間にも、世は流れて行っておる…月は未だ無人のまま。我らは、子を成そうと思うておるのだ…主ら、転生してはもらえぬか。」
二人は顔を見合わせた。
「それは…また、月としてということでしょうか?」
維月の問いに、碧黎は頷いた。
「陰陽二人の月がいる。主らを一緒に転生させる…それが一番良いのよ。性質の悪いものが月になってしもうて、力を持ったらどれほど危険かわかるだろう。」
維月と十六夜は顔を見合わせた。
「オレは…別に維月と一緒なら構わねぇが」と、維心を見た。「維心を残すことになる。それは出来ねぇよ。」
維心は、後ろから言った。
「我はもう、離れとうない。残されてこのような所で、一人過ごすなど出来ぬ。」
碧黎はため息を付いた。
「そう言うだろうと思うての。将維が明日、妃を迎える…臣下が決めて来た者であるが、必ず最初の一日は通うであろう。あれは律儀ゆえな。それを狙って、主を転生させようと考えておる。恐らく、それしかチャンスはあるまい。ほんに淡白なヤツであるゆえなあ。無理にとは言わぬ。残るか転生するか、選ぶがよい。」
維心は維月を見た。維月も不安げに維心を見た。
「しかし…その転生の仕方であれば、記憶は無くなるであろう。我らは…再び会えぬかもしれぬ。」
維月は胸の前でグッと手を握った。私と十六夜は、共に生まれて、今度は共に育つ。でも、維心様は…。
「これは決めた事であるのだ。」碧黎は言った。「月は地上に必要ぞ。個人のわがままは聞けぬ。主はどちらなりと選ぶ権利はあるが、この二人にはない。」
十六夜も気遣わしげに維心を見た。維心はじっと考えていたが、顔を上げた。
「わかった。では、約してくれぬか、碧黎よ。転生したら、主には我らが分かるであろう。我に、維月を会わせてほしい。例え覚えておらずとも、我は必ず維月に会いたいのだから。」
碧黎は、頷いた。
「約そう。我は違えぬ。」と、踵を返した。「では、明日の。そこで待て。時が来たら、主らは光に変わり、それと同時に記憶は消え、命として宿る。夜明けが、その時ぞ。」
碧黎が去った後も、三人はしばらくそのままじっと黙っていた。記憶が消える…全て。
十六夜が言った。
「そんな馬鹿なことがあるか。なんで忘れなきゃならねぇ。オレは知ってるぞ…記憶は戻る事がある。ツクヨミがそうだった。消えるんじゃねえ、魂には残ってるんだ。オレは忘れねぇぞ。絶対に思い出してやる。オレ達の力を精一杯込めれば、記憶を表層に残す事が出来るはずだ。」と、維心を見た。「維心、やろう。記憶を自分の力で封じるんだ。そしたら、記憶は守られたまま持って行けて、自分で解く事が出来る。それが解ければ、記憶は解放される。」
維心は思い詰めたような顔で頷いた。
「そうだ。それに賭けるしかない。だが、記憶を封じれば解くことも分からぬぞ。どうすれば…」と、維心は自分の手を見た。「指輪ぞ。我はこれを持って来ることが出来た。持ったまま転生も可能なはずぞ。十六夜、これに封ずるぞ!」
十六夜は頷いた。
「再びこれを目にしたら、オレ達三人の記憶の封が解けるようにする。明日、夜明け前に術を掛けよう!」
その夜、三人は最後の夜を共に過ごした。必ず再び、会う。これで最後であるなど、あってはならないのだ。
維月は指輪を握り締めた。
「必ず思い出しまする。これを持って、転生します。」
維心は手をかざしながら、言った。
「必ず、またあちらで会おうぞ。」
十六夜も手をかざした。
「じゃあな。すぐ会えるさ。」
維心と十六夜から発しられた光は三人を包み、三人は気を失ってそこへ倒れた。
そして、間もなく。
日が昇り始めた時、三人は光になって、天空へうち上がって行った。
維心と維月のこの時の夜のお話は、昨日夜ムーンライトにアップされています。ご興味がおありのかたはどうぞ。




