転生初日に殺されたカプ厨おじさんの成仏条件が、私と公爵様の恋に関係しているようです
夕暮れの公爵邸で、おじさんが浮いていた。
本当に、浮いていた。
床から三十センチくらい離れたところに、見慣れない服を着た中年の男性がいる。足元には何もない。目をこすってみても、やっぱり足は床についていなかった。
その日は遅くまで帳簿の清書をしていた。ようやく仕事を終えて、部屋へ戻る途中だった。
だから最初は、疲れているんだと思った。
きっとそうだ。そうであってほしかった。
「あ~あ……これじゃもう地縛霊じゃん。死んだらこんなに無力なのか~」
おじさんは私に気づかず、天井を見上げていた。
「てか、この世界にも幽霊って概念あるんだな~。まあ、誰にも見えないなら、あってもなくても一緒だけど」
何を言っているのかより、足が床についていないことのほうが気になった。
「……おじさんが浮いてる……」
つい、声に出してしまった。
「んっ?」
おじさんがこちらを向いた。
目が合った。
おじさんは少しだけ右へ動いた。私の目も、つられて右へ動く。今度は左へ動く。私も目で追ってしまう。
「えっ? ちょ、待っ……マ? ボクのこと見えてる?」
どうしよう。
なんだか話しかけてきている。でも、返事をしたらいけない気がした。
私は何も見なかったことにして歩きだした。
「ねぇ、ボクのこと見えてるよねぇ?」
「み……見えてません……!」
「返事してるじゃん!」
しまった。
「ち、違います。これは、その……独り言で……」
「ボクのことを見ながら? それはそれで怖いよ?」
歩く速度を上げた。
おじさんは私の横へ回り込み、そのまま後ろ向きに浮きながらついてくる。
「ねぇねぇ、見えてるんでしょ? 今、ボクが右手を振ってるのも見える?」
見ない。
「じゃあ左手は? ほら、両手。今度は一回転」
視界の端で、おじさんがくるりと回った。
「一言だけ! 一言だけでいいから、見えてるって言ってよ。ねぇ、お願い。ねぇってば。ねぇねぇねぇ」
右から左へ、左から右へ。何度避けても、おじさんの顔が目の前へ戻ってくる。
もう、無理だった。
「あーー! もう! うるさいなぁ!!」
廊下に、自分でも驚くくらい大きな声が響いた。
「見えてます! ちゃんと見えてますから……!」
言ってから、両手で口を押さえた。
人に怒鳴ったことなんて、たぶん一度もない。嫌なことがあっても、いつもなら黙ってやり過ごすのに。
「ほら、やっぱり見えてるじゃん!」
おじさんはうれしそうだった。
「ご、ごめんなさい。大きな声を……でも、あなたがずっと……」
「怒るとけっこう声出るんだねぇ」
「誰のせいですか……」
これ以上関わってはいけない気がして、私はもう一度おじさんに背を向けた。
「ミレヤちゃん」
足が止まった。
「……どうして、私の名前を知っているんですか?」
「五年間もここにいるんだから、働いてる人の名前なんて全員覚えてるよ! これで、ボクがずっとここにいたって信じてくれた?」
「な、名前を知っているだけでは……」
「慎重だねぇ。それにボク、ミレヤちゃんにも何度も話しかけたよ。これまでずっと、ボクのこと無視してたの?」
「おじさんの幽霊なんて、今まで一度も見えたことありません!」
「えっ。じゃあ、今日いきなり?」
「そうです。今日、初めて見えました。声も聞こえたことはありません」
「なんで?」
「なんでって……そんなの私には分かりませんよ……」
「そっか。じゃあ、今まで無視してたわけじゃないんだ!」
少し安心したように言われて、胸がちくりとした。
「だったら、少しだけ話を聞いてよ。五年間、誰に話しかけても素通りされてきたの。廊下の真ん中に立っても、食卓に寝転がっても、神官さんの耳元で絶叫しても駄目だったんだから」
「し、神官様がお気の毒なので、それはやめてください」
「優しいね。ボクにもその優しさを向けてくれない?」
名前まで知られていて、以前から何度も話しかけられていたらしい。もう、ただの見間違いとして逃げ切るのは難しそうだった。
私は恐る恐る、おじさんへ向き直った。
「……本当に幽霊なんですか?」
「この透明感を見てよ」
おじさんが壁へ腕を入れた。肘から先が石の中へ消えて、すぐにするりと戻ってくる。
私は一歩下がった。
「物には触れないし、ご飯も食べられない。この屋敷の敷地からも出られない。昼も夜も浮いてるだけ。正真正銘、幽霊だよ。この世界にもその概念あるんだなぁって驚き」
「この世界……って、何ですか? まるで、ほかにも世界があるみたいな言い方ですけど……」
「あるよ。少なくとも、ボクがいた世界とここ。ボクは元々、日本って国にいたの。一度死んでこっちへ転生させてもらったんだけどね。期待したよ。剣と魔法の世界で第二の人生が始まるんだって。それなのに、目を開けたその日に殺されちゃった」
「……ずいぶんお気の毒ですね」
ほかに何と言えばいいのか分からなかった。
「でしょ? 管理担当の女神様もさすがに気の毒だと思ったらしくて、新しく転生させてもらえるみたいなんだ。しかも今度は若い姿らしいし。そこはありがたいんだけどさぁ」
おじさんは人差し指を立てた。
「多分、犯人を捕まえないと成仏できないんだよ!」
「多分? 女神様から条件を聞かなかったんですか?」
「ま……まあ、聞いたような聞いてないような……」
この人、絶対に次の転生に浮かれて、女神様の話をちゃんと聞いていなかった。
「は……はぁ……。で、その犯人は分かっているんですか?」
「分かってる! あいつ!」
おじさんが廊下の先を指す。
そこには、先代公爵様と使用人たちを描いた大きな肖像画があった。指の先にいたのは、白髪の男性だった。
執事長のロタール・グレンツ様。
公爵家で働く者なら、誰でも知っている。先代の頃から家政と領地の会計を任されてきた、厳しくて、真面目な人だ。
「えっ……ロタール様が……?」
「様をつけたくなる気持ちは分かるよ。うんうん。外面はいいからね。でも、あいつがボクを殺したんだよね〜」
そんなことを急に言われても、信じていいのか分からない。
おじさんはそれ以上まくしたてず、私の返事を待っていた。
結局、その場では返事ができなかった。考えさせてくださいとだけ伝えて、私は自分の部屋へ戻った。
◇◆◇
次の日。
昨日のことは夢だったのかもしれないと、ほんの少しだけ期待していた。
でも、帳簿室へ入ろうとした私を、おじさんが満面の笑みで出迎えた。
「おはよう、ミレヤちゃん!」
「……おはようございます、おじさん」
「朝一番からおじさん呼び?」
「名前を聞いていませんから」
「あ、そうだった。じゃあ今――」
「仕事中なので、後にしてください」
「名前くらい三秒で終わるのに」
昨日あれだけ絡まれたせいか、おじさんにだけは、普段なら飲み込む言葉がそのまま出てしまう。
小声で話していると、廊下の向こうから数人の側近を連れた方が歩いてきた。
淡い金色の髪に、青灰色の目。
半年前に爵位を継いだ、エメリック・ラウゼン公爵様だった。
気づいた瞬間、背筋が伸びた。私は慌てて壁際へ下がり、頭を下げる。
「おはようございます、公爵様」
「おはよう、トルン君。昨日も遅くまで帳簿室にいたそうだな」
「は、はい。ですが、任された分は終わりました」
「根を詰めすぎないように。君に倒れられると、こちらが困る」
「お気遣い、ありがとうございます」
顔を上げられないまま答えると、公爵様はそのまま通り過ぎていった。
足音が遠ざかっても、しばらく動けなかった。耳が熱い。
半年前、冬の配給に関する帳簿の間違いを見つけたことがある。下級書記の私が口を出していいのか迷ったけれど、そのままでは困る人が出ると思って、思い切って報告した。
公爵様は笑わずに話を聞いてくれた。それどころか、「君のおかげで多くの領民が助かった」と、私の名前まで覚えてくれた。
たぶん、好きになったのはそのときだ。
「……なるほどねぇ」
すぐ耳元から声がした。
「何ですか」
「キミ、『カプ厨』って言葉知ってる?」
「か……カプチュウ……? なんですか、それ」
「ふーん。知らないならいいや。彼氏いる?」
「……なんか、感じ悪いですね」
「おじさんだもん。ちょっとは許してよ。死んでるんだよ? こっち」
「死んでいることを何にでも使わないでください!」
おじさんは、答えるまで離れそうになかった。
周りに人がいないことを確かめてから、私は小さな声で答えた。
「好きな人は……いますけど。手の届かない人というか……」
「ああ、さっきの?」
「えっ?」
「公爵サマ。キミ、あの人を見てるときだけ顔が全然違ったよ」
「なっ……どうして公爵様だって……」
「幽霊歴五年をなめないでって。しかも公爵サマ、通り過ぎてから一回振り返ってたし」
「そ、それはきっと、私が一人で話しているように見えたからです……!」
恥ずかしくなって、つい声が大きくなった。
ちょうど通りかかった侍女が、不思議そうにこちらを見る。私は何でもないと笑ってごまかした。
「ほんとにそれだけかなぁ」
「それだけ、だと思います。公爵様と私では、立場が違いすぎますから……」
「ふぅん? 平民娘と公爵様の身分差カプかぁ。いいねぇ」
「か……カプ?」
「カプ誕の気配がする」
「カプ誕……?」
おじさんが宙で勢いよく起き上がった。
「よし、こうしよう! おじさんがキミと公爵様をうまくいかせる。だからキミは、ボクを殺した犯人を捕まえてよ!」
「でも……あなた、幽霊ですよね? そんなこと、本当にできるんですか……?」
「できるよ! ……多分」
「急に不安になってきました……」
「大丈夫。ボク、自分の恋愛経験はゼロだけど、人の恋愛には口を出せるタイプだから」
「それを聞くともっと不安になるんですが……」
公爵様との恋を叶えてもらえるなんて、もちろん思わなかった。
でも、だからといって、おじさんを放っておくこともできなかった。
もし話が本当なら、この人は五年間、自分を殺した相手の近くで、誰にも気づかれずに過ごしてきたことになる。
「……私にできることなら、犯人を捕まえるお手伝いはします。公爵様のことと交換でなくても」
「ありがとう。あ、そうだ。これから一緒に犯人を追うなら、ちゃんと名乗っておかないとね」
おじさんは宙で姿勢を正した。
「ボクは御厨伊織。御厨が名字で、伊織が名前」
「ミクリヤ・イオリさん……? 変わったお名前ですね」
「日本では『名前だけはイケメンですね』って、よく言われたよ。ははは!」
「名前だけ、ですか……」
「そこを復唱しないでくれる? それから、できれば伊織かイオリンって呼んでね」
「分かりました、おじさん」
「名乗った意味あった?」
おじさんは、死んでいるとは思えないくらい明るく笑った。
その明るさが、少しだけ無理をしているようにも見えた。
「でも、本当に、どうして昨日から急に見えるようになったんだろうね」
「分かりません。でも、おじさんのことが見えるようになったのには、きっと意味があると思うんです」
「……そういうところだよ!」
「えっ? な、なんですか?」
「公爵サマがキミを好きになりそうなところ!」
「……か、からかわないでくださいよ!」
そう言いながら、私は少しだけ笑ってしまった。
◇◆◇
「それでね? 女神様の説明が終わって目を開けたら、北倉庫だったんだ」
昼休み、人のいない中庭で、おじさんから五年前の話を聞いた。
「目の前にじじいがいてね。金貨と帳簿を木箱に詰めてた」
「それだけで横領だと分かったんですか?」
「帳簿に書かれた額を削って、別の紙に本当の額を書いてたから。日本でも会社のお金をちょろまかす人は、だいたい似たようなことをするんだよ」
「でも黙って逃げればよかったのに……」
「驚いて、つい『じいさん、それ横領っすか?』って声に出しちゃって」
「ど、どうして声に出すんですか……」
「初日だったから! ここの治安がそんなに悪いと思わないじゃん!」
ロタール様はおじさんを密偵だと思ったらしい。
誰に命じられたのかと聞かれて、おじさんは正直に「女神様」と答えた。それも何かの暗号だと勘違いされたそうだ。
「ロタールが短剣に手をかけたのが見えてさ。逃げなきゃと思ったんだけど、次の瞬間には短剣が光って、気づいたときには、自分の体を上から見てた。いやぁ〜びっくりしたね〜」
「……もっと、怒ってもいいことだと思います」
「怒ったよ。最初の三年くらいは」
おじさんは笑った。でも、今までの笑い方とは少し違った。
「どれだけ怒鳴っても、殴りかかっても、声は届かないし、手はすり抜ける。怒るのも疲れちゃってさ」
半透明の手を見つめる顔を見て、胸が痛くなった。
「刺されたときのボクの叫び声を聞いて、その晩の倉庫番が駆け込んできたんだ。ロタールがボクの胸から短剣を引き抜くところを、はっきり見てた」
「その方も、殺されてしまったんですか……?」
「ううん。ロタールは、ボクの体を床下に埋めるのを手伝わせたんだ。若い男の人で、家族を盾に脅されて、ずっと震えてたよ」
「その方は、今どこに……?」
「事件のすぐあとに屋敷を辞めたよ。今どこにいるかは、この敷地から出られないボクには分からないけど」
「でも、公爵様なら探せるかもしれません」
「うん。それと、ボクの体は北倉庫の床下。あいつが使ってる裏帳簿も、今は執務室の壁の中に隠してある。場所は知ってるよ。五年もあいつを見てきたから」
「でも、キミ一人で床を掘り返したら、ただの墓荒らしだよね」
「……公爵様にお伝えするしかありません」
自分で言っておいて、逃げたくなった。
下級書記が公爵様へ面会を願い出て、「幽霊から聞きました」と伝える。どう考えても、まともな人のすることではない。
「おっ、早くも二人きりの相談イベント?」
「事件の報告です」
「共同作業には違いないよ」
おじさんはうれしそうだった。
私は今からでも見なかったことにできないかと考えて、すぐに諦めた。
もう、名前まで聞いてしまった。
◇◆◇
翌日、私は公爵様へ面会を願い出た。
断られたらどうしようと思っていたけれど、公爵様はその日の夕方に時間を作ってくださった。
小さな応接室へ通されると、公爵様と護衛騎士が一人、私を待っていた。
そして、おじさんは公爵様の肩のすぐ後ろに浮いていた。
「公爵サマ、近くで見ると本当に顔がいいね」
聞こえないふりをした。
「相談があると聞いた。帳簿についてか?」
「帳簿にも、関係があります。ただ、その……」
喉が乾いて、うまく声が出ない。
怖い。変な女だと思われたくない。
「ミレヤちゃん、声小さいよ。もっと近くに行かないと」
聞こえない。
「ほら、公爵サマの目を見て。二秒でいいから。そこでちょっと微笑んでみよう」
無理に決まっている。
「急がなくていい。落ち着いて話してくれ」
公爵様は急かさずに待ってくれた。
「やさしい~。これは脈ありかも。今だよ、ミレヤちゃん。『そんなふうに優しくされたら、勘違いしてしまいます』って」
おじさんが私と公爵様の間へ割り込んでくる。
「ねぇ、聞いてる? ミレヤちゃん。ねぇねぇ、今がチャンスだよ! 今のうちに少しでも距離を――」
「おじさん、うるさい! 黙って!!」
応接室が静まり返った。
公爵様が目を見開いている。
護衛騎士も、何とも言えない顔で私を見ていた。
そこで、ようやく気づいた。
この部屋でおじさんが見えているのは、私だけだ。
「……今のは、私に言ったのだろうか」
公爵様の声が、さっきより少しだけ小さい。
「ま、まだそんな年齢ではないと思うのだが……」
青灰色の目が、ほんの少し傷ついたように見えた。
「ち、違うんです……!! 公爵様のことではなくて!」
「では、誰に?」
「そ……そこにいる、おじさんに……」
私が指した先を、公爵様と護衛騎士が同時に見る。
おじさんは二人に向かって、にこやかに手を振っていた。
「……誰もいないが」
「ゆ、幽霊なんです。五年前に、この屋敷で殺されたおじさんの幽霊がいて……私にだけ見えるみたいで……」
「紹介が『おじさんの幽霊』って、ちょっと雑じゃない? もうちょっとドラマ性ある感じで紹介してよ。例えば――」
「もう! 今は黙っていてください!」
公爵様の肩がわずかに揺れた。
「あっ……! い、今のも公爵様に言ったわけではなくて……!」
「……分かった」
本当に分かっていただけただろうか。
もう帰りたい。できることなら、今すぐ床へ消えてしまいたかった。
それでも、公爵様は笑わなかった。
「その幽霊は、今もそこにいるのか?」
「……はい。公爵様の右肩の後ろで、手を振っています」
公爵様が右肩の後ろを見る。もちろん、何も見えていない。
「公爵サマよろしく~」
「……よろしく、と言っています」
「ずいぶん陽気な幽霊らしいな」
「躾がなってなくて申し訳ありません……」
「君が謝ることではない」
公爵様は少しだけ口元を緩めた。
そのおかげで、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
「おじ……その方は、北倉庫の床下に自分の遺体があると言っています」
私は膝の上で握っていた手に力を入れ、そのまま話を続けた。
「話だけで信じていただけるとは思っていません。ですが、この方は五年前の救恤用小麦の横領を目撃したために殺されたそうです。また、その犯行を目撃した当時の倉庫番は、ロタール様に脅され、遺体を埋めるのを手伝わされたそうです。倉庫番の方は、事件の直後に屋敷を辞めています」
公爵様の表情が変わった。
「なぜ、その取引を知っている」
「この方が、殺される前に見たそうです」
「……五年前、北部の三村へ送ったことになっている小麦が、実際には届いていなかった。私も爵位を継いでから調べているが、当時の原簿だけが一部なくなっている」
「それそれ! さすが公爵サマ、ちゃんと気づいてた!」
「今、『さすが公爵様』と……」
「そうか」
公爵様は短く答え、それから護衛騎士へ視線を向けた。
「五年前の使用人名簿から、当時の倉庫番を調べてくれ」
「はっ」
それから、公爵様は私を見た。
「夜を待とう。人目を避けて、北倉庫を確かめる」
「信じてくださるのですか?」
「まだ、すべてを信じたわけではない」
やっぱりそうだ。そう思った私に、公爵様は言葉を続けた。
「だが、君がこのような嘘をつく人間ではないことは知っている」
胸の奥が急に熱くなった。
何か答えようとしたけれど、うまく言葉が出なかった。
私の後ろでは、おじさんが音のしない拍手をしていた。
◇◆◇
その夜、北倉庫の床下から、本当に人の骨が見つかった。
見慣れない服をまとった遺骨を見た瞬間、胃のあたりが冷たくなった。
今も隣に浮いているおじさんの、かつての体。
本当に殺された人なのだと、ようやく分かった気がした。
「ボクの体、まだあったねぇ。骨だけど」
おじさんは、自分の遺骨を不思議そうに眺めていた。
「怖くないんですか?」
「ボク幽霊だし? ボクより怖いものないでしょ。それより、これでボクが嘘つきじゃないって分かったでしょ?」
私はうなずいた。
疑っていたことを謝りたかったけれど、どんな言葉でも軽くなる気がして言えなかった。
公爵様は遺骨の前に膝をついた。
「長い間、見つけられずにすまなかった」
「公爵サマのせいじゃないって言っておいて」
「ご自分のせいではないと、おじさんが」
「それから、できればもうちょっとミレヤちゃんの近くに寄って」
「……それは伝えません」
公爵様が不思議そうに私を見る。
「す、すみません。今のは公爵様にではなくて……」
「分かっている」
少しだけ笑われて、また顔が熱くなった。
騎士の一人が遺骨を改め、胸元で手を止めた。
「肋骨に、刃物でつけられたらしい深い傷があります」
公爵様は、しばらくその傷を見つめた。
「遺体の場所も、死因も、彼の話と一致している。少なくとも、この話を調べるだけの理由は十分だ」
「でも、これだけではロタール様が殺した証拠には……」
「当時の倉庫番を捜すよう、すでに命じてある。ただし、五年も前に辞めた者だ。見つかるまでに時間がかかるかもしれないし、証言だけに頼るわけにもいかない」
「裏帳簿があるそうです」
「壁の中だよ。ロタールの執務室にある、鹿が描かれた絵の裏」
そのまま伝えると、公爵様はすぐに捜しに行こうとはしなかった。
「今踏み込めば、ロタールは帳簿の存在を否定するだろう。自分で取り出すところを押さえたい」
「では、どうすれば……」
「罠を張る。協力してくれるか、トルン君」
公爵様が手を差し出した。
一瞬、意味が分からなかった。
公爵様の手を取っていいのだろうか。周りにいる騎士たちは気にしていないのに、私だけがそんなことを考えてしまう。
迷ったあと、そっと手を重ねた。
「はい、公爵様」
大きな手が、私の手を包んだ。
「手、手! 共同作業どころかいきなり接触イベント来た!」
おじさんが私たちの周りをキャッキャと騒ぎながら回り始める。
「おじさん、少し静かにしてください」
「カプ厨歓喜のシチュだからさ! 喜ぶでしょこんなの!」
「その幽霊は、何と言っている?」
「……早く犯人を捕まえたいそうです」
公爵様は、私の手をすぐには離さなかった。
それだけで期待しそうになる自分が嫌で、私は下を向いた。
◇◆◇
それから三日間、私は公爵様と過去五年分の帳簿を調べた。
表向きは爵位継承に伴う整理ということにして、昼はいつもどおり働き、夜になると小さな執務室へ集まった。
もちろん、おじさんも毎晩ついてきた。
おじさんに言い返すたび、公爵様に何を言われたのかと尋ねられ、私はとうとう、「カプ厨」と「カプ誕」の意味まで説明する羽目になった。
「はい、ミレヤちゃん。公爵サマにお茶を渡すとき、さりげなく指を触れさせて」
「事故を装うのは嫌です」
「じゃあ、疲れてふらついて胸に飛び込むとか」
「もっと嫌です!」
「注文が多いなぁ。草食系?」
「何を話している?」
公爵様が書類から顔を上げた。
「な、何でもありません」
「彼は、事件と関係のないことばかり話しているようだな」
「よくお分かりで……」
「君の困りようを見ていれば何となく察しがつく」
「失礼だね。二人の仲を進展させるのは、ボクにとって事件と同じくらい大事なんだけど」
おじさんの言うことは困るものばかりだった。
それでも、いてくれてよかったと思う。
公爵様と二人きりだったら、緊張してほとんど話せなかったはずだ。おじさんへ言い返しているうちに、少しずつ普通に息ができるようになった。
その晩も、気づけば日付が変わりそうになっていた。
数字を見すぎて目が痛い。少しだけ目を閉じると、肩に温かなものが掛けられた。
公爵様の上着だった。
「少し休め。顔色が悪い」
「ですが、公爵様もお休みになっていません」
「私は慣れている」
「ほら、ミレヤちゃん。そこで引いちゃ駄目。『一緒に休みましょう』って言って」
「で、でも……慣れていいことでは、ないと思います。い……一緒に休憩しますか?」
言ってから、出すぎたことを言ったと思った。
「も、申し訳ありません!」
「なぜ謝る?」
公爵様は驚いたように私を見て、それから笑った。
「君に言われては仕方ないな。では、二人とも休憩にしよう」
少し離れたところで、おじさんが両手を上げていた。
「はい優勝」
その瞬間、机の端に重ねてあった紙が一枚だけ、かすかに揺れた。
窓は閉まっている。けれど、目が疲れているせいだと思うことにした。
「もう告っちゃう? いい感じだよ」
私はおじさんの声が聞こえないふりをして、肩に掛けられた上着をそっと握った。
「トルン君」
「はい」
「半年前、冬の配給帳簿の誤りを報告してくれただろう。あのときから、君の仕事をよく見るようになった」
驚いて顔を上げた。
「正確で、誠実で、誰も見ていないところでも手を抜かない」
「そんな……私は、当然のことをしているだけです」
「当然のことを続けられる人は少ない」
まっすぐ見つめられて、また下を向いてしまった。
うれしかった。
でも、期待してはいけないとも思った。仕事を評価してもらうことと、私が公爵様を好きなことは別の話だ。
顔を上げられずにいると、後ろから押し殺したような声がした。
「これは脈ありでしょ……」
「おじさん、うるさいです」
「まだほとんど何も言ってないよ!?」
公爵様が小さく笑った。
その声を聞けただけで、今日は十分だと思った。
◇◆◇
三日目の深夜、おじさんが帳簿室へ飛び込んできた。
「動いた! ロタールが裏帳簿を持って、古い礼拝堂へ向かってる。油も持ってるよ!」
翌朝から王都の監査官が入る――公爵様は、そんな偽の情報を流していた。
それを聞いたロタール様が証拠を燃やしに行く。最初から、その瞬間を押さえる計画だった。
公爵様が待機していた騎士たちへ合図を出す。
「トルン君は、ここに残っていてもいい」
私は怖かった。
できることなら、そうしたかった。
でも、おじさんの声は私にしか聞こえない。
「私がいないと、おじさんの声をお伝えできません!」
「危険になるかもしれない」
「……怖いです。でも、行きます」
声が少し震えた。
公爵様はしばらく私を見たあと、うなずいた。
「私のそばを離れないでくれ」
「はい」
おじさんを追って、暗い回廊を走った。
「右! 次の角を右!」
「右です!」
「私の右か?」
「公爵様の右です!」
「こういうとき、通訳って不便だね!」
「おじさんは黙って案内してください!」
古い礼拝堂へ入ると、ロタール様が祭壇の前にいた。
開いた帳簿へ油をかけている。
「そこまでだ、ロタール」
公爵様の声が、暗い礼拝堂に響いた。
ロタール様が振り返る。その顔は、私が知っている厳しい執事長のものではなかった。
「……公爵様。これは不要になった古い記録を処分していただけでございます」
「ならば、こちらへ渡せ」
公爵様が手を差し出した。
ロタール様は動かなかった。後ろから騎士たちが入ってくるのを見て、顔が歪む。
「北倉庫の床下から、五年前に殺された男の遺体を見つけた」
ロタール様の顔から、わずかに血の気が引いた。
けれど、すぐに何もなかったような表情に戻る。
「……私には、何のことか分かりかねます」
「そうか。ならば、その帳簿についても監査官の前で話してもらおう」
ロタール様の視線が、公爵様と騎士たちの間を素早く巡った。そして、油に濡れた帳簿をこちらへ投げつけた。
公爵様が私を庇って身を翻した。
その隙にロタール様が距離を詰め、私の腕を強くつかんだ。
祭壇の前へ引きずられ、背中がロタール様の胸にぶつかった。振り返るより早く、冷たい刃が首に触れた。
怖くて、体が動かなかった。
「ミレヤちゃん!」
おじさんがロタール様へ飛びかかった。
でも、その体は何の抵抗もなく通り抜ける。
「くそっ! また何もできないのかぁ!?」
公爵様が一歩近づくと、刃が首へ押しつけられた。
「ロタール。彼女を放せ」
「騎士たちを下がらせてください。さもなくば――」
「触るな!」
おじさんが叫び、祭壇の燭台へ両手を突き出した。
今まで、どんな物にも触れられなかった手。
その手の先で、鉄の燭台が少しだけ揺れた。
「……え?」
おじさんも驚いていた。
「動け。動けってば!」
燭台が大きく傾き、ロタール様の手首へ倒れた。
短剣が床へ落ちる。
すぐに公爵様が私の腕を引いた。気づいたときには、公爵様の背中が目の前にあった。
騎士たちがロタール様を床へ押さえつける。
「離せ! 私はこの家に三十年仕えてきたのだぞ!」
「三十年仕えたことは、領民の金を奪い、彼女を傷つけようとした言い訳にはならない」
公爵様の声は静かだった。
力が抜けて、膝が震えた。
「大丈夫か」
「は、はい……」
答えながら隣を見ると、おじさんは倒れた燭台と自分の手を、何度も見比べていた。
「できた……」
「おじさん」
「できたよ、ミレヤちゃん! 多分じゃなかった! おじさん、ちゃんとアシストできた!」
「恋のアシストではありませんけどね」
「命のアシストのほうが重要でしょ、今は!」
おじさんは泣きながら笑っていた。
それを見たら、私も少しだけ笑えた。
「今の燭台は、彼が動かしたのか?」
「はい。でも、おじさんは今まで、何にも触れられなかったはずなんです。……ただ、帳簿を調べていた夜、閉め切った執務室で紙が一枚だけ揺れました。あれも、おじさんだったのかもしれません」
公爵様は、床に倒れた燭台を見つめた。
「この世には、考えても分からないことがたくさんある。想いが力になることも、きっとあるのだろう」
そう言って、公爵様は私を見た。おじさんは、その言葉が自分にも向けられたように、うれしそうに笑った。
◇◆◇
裏帳簿から、ロタール様が長い間、領地のお金を横領していたことが分かった。共犯者も捕まり、奪われたお金の多くは戻ってきた。
当時の倉庫番だった男性も、領内の小さな村で見つかった。公爵様が本人と家族の保護を約束すると、男性は、五年前の夜、ロタール様がおじさんの胸から短剣を引き抜くところを目撃し、その後、家族を盾に脅されて遺体を床下へ埋めさせられたと証言した。
ロタール様は最後まで殺害を否定した。けれど、元倉庫番の証言と遺骨に残った傷、そして横領を隠す動機がそろい、言い逃れはできなかった。
全部終わった日の夕方。
北倉庫の近くに、おじさんのための小さな墓標が建てられた。
「いやぁ、終わった終わった」
おじさんは墓標の前で、満足そうに腕を組んだ。
「これでボクも、若いイケメンとして次の人生へ出発だね。じゃあ二人とも、末永くお幸せに――」
目を閉じて、両手を広げる。
何も起きなかった。
「……」
おじさんが片目を開ける。
「…………あれ?」
「どうしました?」
「ボク、まだいるんだけど」
「見えていますね」
「犯人は捕まったよね!?」
「捕まりました」
「成仏する感じ、いっさいないんだけど! ボクの予想、外れてた!?」
私には理由が分からなかった。
隣にいた公爵様を見ると、何か考えているようだった。
「まだ、成仏できないそうです」
「事件を追う間に、新しい未練ができたのではないか。おじさんはカプ厨なのだろう? なら、そのカプ誕とやらを見せれば満足して成仏するんじゃないか?」
おじさんの顔が急に明るくなった。
「それだ! そうそう、それそれ! 未練なのよ、それが!」
「……それだ、と言っています」
「そんな、都合よくカプ誕なんて……」
「都合ではない」
公爵様が私のほうを向いた。
目が合って、息をするのを忘れそうになった。
「それに、彼を成仏させるための芝居でもない」
「公爵様……?」
「私は以前から、君に惹かれていた」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
分かったあとも、何も言えなかった。
「半年前、初めて君の仕事を知ったときから、誠実な人だと思っていた。ともに事件を追って、君の強さも、優しさも知った」
公爵様の声は、いつもより少しだけゆっくりだった。
「身分を理由に、君へ答えを強いるつもりはない。今すぐ答えなくてもいい。だが、許されるなら――これからは公爵と書記としてではなく、一人の男と一人の女性として、君のそばにいたい」
夢に見たことはある。
でも、夢の中でさえ、こんなふうに言ってもらえたことはなかった。
「私で……よろしいのですか?」
聞いたあとで、情けない言葉だったと思った。
それでも、公爵様は笑わなかった。
「君がいい」
目の奥が熱くなった。
怖かった。身分の差はなくならないし、この先、きっと簡単ではない。
でも、それを理由に何も言わなかったら、きっと後悔する。
「私も、公爵様が好きです。ずっと、お慕いしていました」
言えた。
次の瞬間、おじさんの体が淡い光に包まれた。
「来た来た来た! これだよ! カプ誕だぁ!」
「本当に消え始めました……」
「待って、早い早い! もう少し余韻を見せて! 手を握るとか、抱き締めるとか、今後について具体的に話し合うとか!」
「あの……手を握るくらいはしてほしいそうです。ほかにも、いろいろと……」
「注文が多いな」
公爵様が苦笑して、私へ手を差し出した。
今度は迷わず、その手を取った。
おじさんの輪郭が、さらに薄くなる。
「ああ、もう時間ないや」
さっきまで騒いでいた声が、少しだけ静かになった。
「ミレヤちゃん。公爵サマ。幸せになってよ、二人とも」
「はい」
「でも、思ってたような恋愛アシストはできなかったなぁ。ごめんね」
「そんなことありません」
「おじさんがいなければ、今こうしてここにいることもなかったんですから」
おじさんはきょとんとして、それから照れくさそうに笑った。
「それから公爵サマ、身分差ってやつは大変だろうけど、ミレヤちゃんを泣かせたら化けて出るからね」
「公爵様。私を泣かせたら、化けて出るそうです」
「すでに化けて出ているだろう」
「確かに」
おじさんが笑った。
「……確かに、だそうです」
私も、公爵様も笑った。
その体から離れた光が、少しずつ夕暮れの空へ昇っていく。
「……ありがとうございました、イオリさん」
初めて、おじさんではなく名前で呼んだ。
おじさんは目を丸くした。
「最後の最後で名前を呼ぶの、ずるくない? おじさん泣いちゃうよ」
「もう泣いてるじゃないですか」
「死んでから涙腺が弱くなったんだよ」
おじさんは目元を拭う真似をして、いつものように笑った。
「じゃあ、行ってくる。次こそは名前負けしない若いイケメンになって、自分のカプ誕も目指してみるよ」
「行ってらっしゃい、おじさん」
「うん。やっぱり、その呼ばれ方が一番しっくりくるよ! 二人とも、最高に推せるカプだったよ」
それが、おじさんの最後の言葉だった。
おじさんの姿は光の中へ溶けて、あとには柔らかな風だけが残った。
どうしてあの日、突然おじさんが見えるようになったのかは、結局分からなかった。
でも、きっと私がおじさんを送り出すためだったのだと思う。
「……成仏したのか?」
「はい」
「最後に、何と?」
私は公爵様とつないだ手を見下ろした。
まだ信じられない。でも、手の温かさは本物だった。
「私たちは、最高に推せるカプだそうです」
「それは、喜んでいい評価なのだろうな」
「たぶん、これ以上ないくらいに」




