後編
お姉さまは、なんでもできた。
それは自慢でも誇張でもなく、わたしにとってはごく当たり前のことだった。小さいころから、いつもそうだったのだ。
幼いころ、わたしたちは一緒に礼儀作法を習っていた。背筋を伸ばすこと、歩幅を揃えること、ティーカップの持ち方ひとつにしても、お姉さまはとてもきれいで、わたしは隣で感心してばかりいた。
楽器の練習も同じで、わたしが音を間違えて止まってしまっても、お姉さまは最後まで弾ききって、あとで「ここ、難しいわよね」と優しく教えてくれた。
庭で花を摘んだ日のこともよく覚えている。お姉さまはわたしの髪にそっと花を挿して、「似合うわ」と言ってくれた。鏡に映る自分より、その横に立つお姉さまの方がずっと綺麗で、わたしは少し誇らしくて笑っていた。
頼りになるお姉さま。優しくて、落ち着いていて、なんでも知っているお姉さま。
だからあの日、お姉さまが「商会のお仕事を手伝いたいの」とおっしゃったとき、わたしは本当に驚いたのだ。
そんなこと、なさらなくてもよろしいのに。帳簿や数字の話は難しそうで、きっとお疲れになるだろうし、お姉さまはもっと穏やかに、綺麗なドレスをお召しになってわたしとお茶をしてくださればいいのに。
けれど、お姉さまはやっぱりお姉さまだった。気づけば商会のことは自然とお姉さま中心に回るようになっていて、父も母も「セレネがいるから安心だ」と口にしていた。商会の人たちも困ったことがあると、まずお姉さまのもとへ向かう。
ああ、やっぱり。だからわたしは、そのたびに言ったのだ。
「お姉さまはすごいのね」
「ありがとう。とっても助かっているのよ」
それは心からの気持ちだった。尊敬していたし、憧れていた。わたしにはとても真似できないことだったから。
わたしには、お姉さまのような才覚はない。けれど、わたしにできることもあるはずだと思っていた。自分にできることで、お姉さまの役に立ちたかった。
社交の場に出て、人と話して、笑顔を忘れずに。お茶会や夜会では噂話に耳を傾け、さりげなく話題をつないで、伯爵家の名が良い意味で広まるように心を配った。
「お姉さまは商会を手伝っていらっしゃって、帳簿も交渉も完璧で本当に立派な方なの」
お姉さまがどれほど立派かをみんなに知ってもらえることが、わたしの役目だと思っていた。お姉さまは、なんでもできる。だから、わたしはわたしにできることをすればいい。
けれど──ある頃から、お姉さまは少しずつ変わっていった。
以前は季節ごとに仕立てていたはずのドレスも、いつの間にか色味の落ち着いたものばかりになり、刺繍も控えめで華やかさを抑えられていた。わたしが新しいドレスを試着している横でお姉さまは同じものを何度も着回していらして、それでも気にした様子もなくただ「動きやすいのよ」と微笑んでいらした。
そして、気づいてしまったのだ。応接間の奥で、誰かが箒を動かす音がしたとき。洗濯物の香りが、使用人ではなくお姉さまからしたとき。
──お姉さまが、お掃除をしていらっしゃる。
最初は見間違いだと思った。きっと一時的なことだと、自分に言い聞かせた。でもそれは何度も続いた。
「経費を削減しなくてはならないの」
そうおっしゃって、お姉さまは何人もの使用人を解雇なさった。別の雇い先をきちんと紹介したから問題はない、とおっしゃっていたけれど、使用人を減らす家だ、という噂はすぐに広まる。解雇された人たちは、どんなに事情があっても「辞めさせられた側」として見られてしまう。
それに何より、令嬢が質素な服で家の掃除をするなんて、そんなこと聞いたこともなかった。伯爵家の体面に関わる、わたしたちはそういう立場のはずなのに。
「どうしてそんなことをするの?」
わたしは、勇気を出してお姉さまに訊ねた。責めるつもりなんてなかった。ただ、本当に分からなかったのだ。お姉さまは一瞬だけ手を止めて、わたしの方を見た。けれど一瞥しただけで、何も言わずにまた掃除に戻ってしまう。
それでもわたしはお姉さまを信じた。お姉さまはなんでもできるから、きっと何かお考えがあるのだろうと。自分には分からないだけで、正しい選択なのだろうと。
お姉さまには婚約者がいらっしゃった。幼いころから決められていたご縁で、伯爵家同士の婚約。
レオニス様とは、わたしもときどき言葉を交わすことがあった。当たり障りのない世間話をする程度だけれど、そのたびに彼は少し困ったような顔をして、同じことをわたしに尋ねてきた。
「……セレネはどんな話題が好きなんだ?」
どうにか距離を縮めたいのに、うまく言葉が見つからない。そんな戸惑いが滲んでいて、この方は本当にお姉さまのことを考えていらっしゃるのだわ、とわたしは思っていた。お姉さまに相応しい方だと、疑いもしなかった。
けれど両親は、時折残念そうにこう言った。
「セレネが嫁いでしまうのは惜しい。商会の仕事を、あれほど見事に回せる娘はそういない」
でも、それは仕方のないことだ。だって、お姉さまは他家に嫁ぐのだもの。
そう思っていたその矢先だった。レオニス様が、わたしを妻にしたいとおっしゃったのは。
最初にその話を聞いたとき、胸がどきりとした。驚きと戸惑いと、それからほんの少しの、言葉にしづらい感情が胸に混ざった。でも、すぐに思ったのだ。
たしかに貴族の妻としてなら、わたしのほうが向いている。社交は好きだし、人と話すのも苦にならない。お茶会や夜会で場を和ませることもできるし、身なりや立ち振る舞いにも気を配れる。
一方で、お姉さまは数字や契約書を前にしているときのほうがずっと楽しそうだった。帳簿をめくる指先は迷いがなくて、交渉の話をしているときの目はきらきらと輝いていた。
「仕事が好きなのよ」
そうおっしゃっていたお姉さまの声を、わたしは覚えている。だから思ったのだ。きっとこれが、いちばん良い形なのだと。
お姉さまは家に残って、商会を支える。わたしは他家に嫁いで、伯爵家同士の縁を結ぶ。きっとこれがわたしの役目なのだ。わたしができないことをお姉さまが引き受けて、わたしはお姉さまが輝ける場所を守る。
両親も、そう考えたらしかった。
娘では家督は継げないから、お婿様を迎える。けれど、商会の実質的な裁量はすべてお姉さまに任せる。名目はともかく、実際の跡取りはセレネだ──そう決めたのだと聞いた。それはとても合理的で、誰も損をしない決断のように思えた。
◆
「……まさか、本当に出ていってしまうとはな」
「セレネは、この家を継ぐつもりでいたはずではなかったの?」
夕食の席で、両親が疲れ果てた様子で口を開いた。その通りだった。それは、ずっと前から決まっていたことだったはずなのに。
「ルナリアには婚約がある。いずれは嫁に出る身だ」
「そうなると……婿を迎えることもできないわ」
お母さまは額を抑え、お父さまは深くため息をつく。その仕草だけで、疲れているのだと分かってしまう。最近のお父さまは毎日朝早くに家を出て、夜遅くに戻ってくる。商会のことを考えているのだと、言われなくても分かった。
「商会の仕事もだ。帳簿、仕入れ、航路……セレネが担っていた部分が多すぎた。今残っている者たちだけでは、どうしても回らないところが出てくる」
「お父さま……」
そう呼びかけたけれど、続く言葉が見つからなかった。慰めることも解決策を示すことも、わたしにはできない。だって、わたしはなんでもできるお姉さまではないのだから。
「……どうして、出て行ってしまったのかしら」
わたしにもわからない。お姉さまはいつも静かで、忙しそうではあったけれど、「大変だ」と口にすることはなかったから。だから、わたしは思っていたのだ。お姉さまは仕事が好きで、得意で、誇りを持ってやっているのだと。
食事のあと、わたしは一人で部屋に戻った。窓辺に立って庭を眺めながら、何度も同じことを考える。
──どうして、出て行ってしまったの?
思い返せば、きっかけは婚約の解消だったように思う。レオニス様がわたしを妻にと望んでくださって、お姉さまにとってもいいことだとわたしは信じていた。
それなのに、お姉さまは何も言わずに家を出ていった。理由も、文句も、涙も残さずに。それがどうしても分からない。
何がいけなかったのか。何が、お姉さまをそこまで追い詰めてしまったのか。
分からないままわたしは今日も、静まり返った屋敷の中でひとり考え続けている。
──お姉さま。わたし、何か、間違えてしまったのかしら。
◆
「婚約破棄の件については、俺の判断が軽率でした。まずは、そのことをお詫びしたく思います」
両家が揃った応接間で、レオニス様はいつものように背筋を伸ばし、少しだけ顎を上げて堂々と父と母を見据えていた。その姿は相変わらず自信家で──けれどそれが今のわたしには少しだけ救いだった。
「けれど責任から逃げるつもりはありません。俺はルナリア嬢を選んだ。その選択に最後まで向き合うつもりです」
「……具体的には、どうするつもりだ」
お父さまが低い声で問い返した。あの日お姉さまが家を出て行ったこと。その原因のひとつが、きっとこの出来事にあるのだと、わたしも分かっている。
「自家の家督の継承は、弟に譲ります」
レオニス様が続けた声に、誰もが一度、言葉を失った。
「何を言い出すの、レオニス!」
「正気か、そんな話──」
彼のご両親が、ほとんど同時に声を上げる。驚きと怒りが入り混じった言葉が飛び交い、けれどレオニス様は動じなかった。
「軽い思いつきじゃありません。俺は婿として商会の立て直しに力を尽くすつもりです。自分で決めたことですから、譲るつもりはありません」
言い合いはしばらく続いたけれど、結局レオニス様の意思は変わらなかった。向こうのご両親も、わたしの父も母もやがて観念したように頷き、この話し合いはいったんの区切りを迎えた。
家族みんなで立て直そう。その言葉を信じて、わたしも前を向こうと思った。
けれど夜一人になったとき、どうしても思い出してしまう。
最近、噂で聞いたのだ。隣国の公爵のもと、目覚ましい働きをしている女性がいることを。判断が早く、数字に強く、周囲からの信頼も厚いと。
名前は伏せられていたけれど、分かってしまった。そんなふうに語られる方は、お姉さましかいない。やっぱりどこへ行っても、お姉さまは優秀な方なのだ。
誇らしくて、少しだけ胸が痛い。お姉さまにとって、わたしはどんな存在だったのだろう。
わたしが「これが自分の役目なのだ」と信じて疑わずにしてきたことは、あなたの目にはいったいどう映っていた? ただの的外れで、足手まといに過ぎなかった?
「お姉さまはすごいのね」そう言うだけで、何も背負ってこなかったわたしを、あなたはどう思っていたの?
窓の外には、夜空が広がっている。あの星の下で、お姉さまは今誰かに必要とされて、仕事をしているのだろう。
小さなころから何でもできて、いつも手を差し伸べてくれる優しくて頼れるお姉さま。背中を追いかけるのが当たり前で、その背中が遠くにあるほど誇らしくて眩しくて、憧れは今も変わらない。
だから、わたしはこの場所に残ります。お姉さまとの思い出が残された、この家で、この商会で。わたしにできることは多くはないけれど、わたしなりに見つけた役目を、ここで果たそうと思います。




