前編
「セレネ、君との婚約を解消させて欲しい」
我が伯爵家の応接間で、婚約者であるレオニスは胸を張ってそう言った。まるで自分が正しい決断を下したかのような顔だった。
「……理由を伺っても?」
「決まっているだろう」
私の問いかけに、レオニスは少し苛立ったように眉をひそめる。
「君は堅苦しすぎるんだ。確かに仕事の腕は優秀だろう。だが妻としてはどうだ? 金勘定ばかりで、まるで商人だ。女らしさがまるでない」
──ええ、商人ですけど。
喉まで出かかった言葉を私は飲み込んだ。今日も商会の帳簿をまとめ、取引先と交渉し、使用人の給金を決めてからここに来た。動きやすく、汚れの目立たない地味なドレスなのは、そのせいだ。
「彼女は違う。素直で甘え上手で、俺を必要としてくれる」
対してレオニスの隣に座る私の妹、ルナリアは今日も甘い色のドレスに身を包み、宝石を惜しみなく飾っていた。その費用がどこから出ているのか、彼女はきっと考えたこともないだろう。
「だから俺は決めた。君との婚約は破棄し、彼女を正式な婚約者とする」
ばしっと言い切って、満足げに頷く。どうやら、これで話は終わりだと思っているらしい。
「お姉さま、ごめんなさい……。でも、きっとお姉さまにとってもその方がいいと思うの」
ルナリアは少し困ったように視線を伏せる。その仕草がどれだけ人に「守ってあげたい」と思わせるかを、彼女は昔からよく知っている。
「だって、お姉さまはすごい方だもの」
◆
「お姉さまはすごいのね」とは、妹の口癖だった。私が家の商会を手伝い始めて、契約書の細かな条文を確認しているときも、ルナリアは隣でそう言った。
褒め言葉のようでいて、実のところ何も見ていない言葉。彼女はいつも微笑むだけで、それ以上は何もしない。いや、正確にはできなかった。数字を見れば頭が痛いと言い、取引の話をすれば難しすぎると顔をしかめ、商会の会合に同席させようとすれば「そういうのはお姉さまの役目でしょう?」と、当然のように笑って逃げた。
そのくせ毎朝鏡の前に立つ時間だけは誰よりも長く、流行の色を取り入れたドレスを選び、宝石を合わせた。今日はどのお茶会に顔を出し、夜会で誰に声をかけるかを考えることには、驚くほどの情熱を注いでいた。
欲しいものがあれば、おねだりをする。困った顔で首をかしげれば、大抵のことは叶った。それらがすべてどこから出てきて、誰が帳尻を合わせているのかを、彼女は一度も疑問に思ったことがないのだろう。
家計のために使用人の数を見直し、私は自分で掃除をするようになった。床を磨き、階段を拭き、朝の冷たい空気の中で手を動かしながら、少しでも経費を浮かせようと必死だった。
その姿を見たルナリアは、手にしていた紅茶を傾けながら、心底不思議そうに首をかしげた。
「どうしてそんなことをするの?」
家を維持するためだ、と答える気にもならなかった。説明したところで、彼女には伝わらないと分かっていたから。
両親もまたルナリアと同じだった。私が商会を回していることを「助かっている」とは言った。だがそれは感謝ではなく、ただの事実確認であり、感情を伴わない報告にすぎない。
その一方で、「ルナリアは可愛い」「あの子は守ってあげないと」という言葉は、何度も何度も繰り返された。
甘え上手な妹と手のかからない姉。役割はいつの間にか固定され、誰もそれを疑わなくなっていた。だから今回の婚約破棄の話も、両親は二つ返事で了承したのだろう。
「ルナリアも同じうちの娘だ。どちらが婚約者になっても、家同士の縁に変わりはない」
父は書類から目を離さず、机の上で指を組んだまま言った。声には感情がほとんど乗っていない。商会で契約条件を確認するときと同じ、実務的な調子だった。
「我が家としてもむしろ合理的だ。セレネ、お前はこれまで通り家に残り、婿を取って商会を支えてくれればいい」
その言い方は、娘ではなく駒の話をしているように聞こえる。隣で母がうなずき、私を見た。扇を揺らし、さも当然のことのように言う。
「そうよ。あなたも、こういう仕事の方が性に合っているでしょう?」
私はその瞬間、ようやくはっきり理解した。この家にとって私は、愛される娘でも、守るべき存在でもない。使いやすく、役に立ち、代わりのきく駒なのだ。婚約者を奪われてもいい。感情を踏みにじられてもいい。家のために働き続けるなら、それで価値がある。
部屋を出てから、どこをどう歩いたのかは覚えていない。気づけば、人の気配のない路地の奥、商会の使われなくなった倉庫の前に立っていた。
──ああ、だめだ。
私は壁に手をつき、俯いたまま唇を噛んだ。さっきまで平然とした顔をしていた自分が嘘みたいに苦しい。わかっていたつもりだった。期待してはいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきた。
熱いものが頬を伝いそうになって、私は慌てて袖で拭う。あの人たちには、絶対に見せたくない。同情される価値も、慰められる資格も、私は持ちたくない。そうやって必死に耐えてきたのに、一人になった途端、感情は容赦なく溢れてくる。
「……っ」
声を殺して、もう一度涙を拭った、そのときだった。
「……失礼。ここに人がいるとは思わなかった」
心臓が跳ねて、反射的に顔を上げる。
立っていたのは、氷色の瞳に夜色の髪の男性だった。派手さはないのに、纏う空気が静かに鋭い。
──知っている。正確には、見たことがある。隣国フロスト公国の若き統治者、ライアン・フロスト公爵。
「……申し訳ありません」
「こちらこそ。無粋だった」
一瞬、視線が私の赤くなった目元に向く。けれど彼は何も言わなかった。詮索も慰めもしない。
「……セレネ嬢」
名を呼ばれて肩が揺れた。どうして私を知っているのだろう。
「以前、取引で書類を拝見した。あなたがまとめたものだ。数字の流れが明確で、判断が早い。……正直に言って、感心したよ」
そんなふうに言われたのは初めてだった。父からも母からも、妹からも婚約者からも与えられなかった言葉。私の努力は当たり前で、評価の対象ですらなかった。
「私は今、人を探している。肩書きや血筋ではなく、仕事ができる人間を」
今まで、私に求められてきたものは何だっただろう。気配り、
我慢、空気を読む力。そして波風を立てないこと。どれも私をすり減らすための条件だった。
「隣国に来る気はないか。待遇は約束しよう。能力に見合う地位も」
ああ、そうか、と今さら思う。私は、誰かに必要とされたことがなかったのだ。都合よく使われて、替えが利く存在として扱われてきただけで。
私は一度目を伏せた。両親の顔が浮かぶ。妹の笑顔が浮かぶ。婚約破棄を告げた男の、得意げな表情が浮かぶ。誰一人、私を必要だとは言わなかった。
私はもう、選んでもいいだろう。誰かの都合ではなく、自分を必要としてくれる場所を。
この手を取ろう。初めて、私を“必要だ”と言ってくれた人の手を。
◆
それから数日後、私は屋敷の応接間に両親とルナリア、そしてレオニスを呼び集めた。一同を見渡してから、私ははっきりと口を開く。
「本日をもって、私は商会の業務から手を引きます」
「……は?」
最初に声を上げたのは父だった。聞き返した、というより、意味が理解できていない声音。
「帳簿管理、取引先対応、仕入れ交渉、航路契約。すべて、引き継ぎをお願いいたします」
あらかじめ用意していた書類をテーブルの上に置く。そこには現在進行中の契約一覧と、注意事項に期限、交渉相手の癖まですべて書き込んである。
母がはっとしたように身を乗り出した。
「待ちなさい、セレネ。それはどういう……」
「言葉通りです。私はこの家を出ます」
心が決まっていると、人はこんなにも冷静になれるのだと自分でも驚いた。きっぱりと遮れば、場の空気が目に見えて凍った。
「……お姉さま、何を言っているの!?」
ルナリアが慌てたように立ち上がる。本気で私がいなくなるなんて考えたこともなかったのだろう。
「考え直しなさい。お前はこの家の長女だ。お前は婿を取って、これまで通りこの家で──」
父の声色は懇願というより命令に近かった。最後まで、必要だからなのだ。私自身ではなく、私の労働が。
「そのつもりはありません」
横目で見れば、ルナリアが今にも泣き出しそうな顔で慌てふためいている。慌てて口を挟んだのはレオニスだった。彼は“婚約者”の肩に手を置き、作ったような笑みで宥める。
「大丈夫だ、ルナリア。君は細かいことを気にしなくていい」
……細かいこと。数字でしか成り立たない商いを、よくそんな言葉で片づけられるものだ。
「でも、お姉さまがいなくなったら……!」
ルナリアは上目遣いで私を見つめて、縋るように袖を掴む。けれど助けを求める声は、今さら私の心には届かなかった。父も母も止める言葉を探している顔をしていたが、もう遅い。
「では、失礼します。どうぞ、“円滑な経営”を」
皮肉を込めたその一言を置き去りにして、私は応接間を後にする。背後で何か言い争う声が聞こえた気がするけれど、もう振り向かなかった。これは復讐ではないのだから。ただ、自分の人生を取り戻すだけなのだ。
◆
フロスト公国に渡ってからの毎日は、目が回るほど忙しかった。けれど不思議と、疲労よりも充実感の方が勝っていた。
「……本当に、即戦力どころの話じゃないな」
ライアン様が私の提出した書類に目を通しながら、半ば呆然と呟いたのを覚えている。無駄な支出の削減に条件整理、当たり前にやってきたことだったそれらは、こちらでは即座に結果として現れ、周囲の見る目を一変させた。
「どうして今まで、こんなやり方を誰もしていなかったんだ?」
「……さあ。慣習、でしょうか」
ここでは成果は正しく評価され、判断は尊重される。私が「できます」と言えば任せてもらえて、「無理です」と言えば理由を聞いてもらえた。
「しかし無理はするな、セレネ。君が倒れてしまっては意味がない」
そう言いながら差し出される紅茶も、夜遅くまで続いた仕事のあとにそっと掛けられる言葉も、すべてが私を“必要な存在”として扱ってくれている証だった。
気づけば、視線が合えば微笑まれ、距離は自然と近くなっていた。愛されている、という言葉を使うには少し照れくさいけれど、少なくとも大切にされている実感があった。
そんなある日、ふとした雑談の中で耳にした噂がある。
「……例の伯爵家の商会、かなり危ないらしい」
実家の商会が、今では存続さえ危ぶまれている、と。無理もない話だ。帳簿は勝手に整い、取引先は黙って待ち、金は自然に湧いてくるわけではない。ルナリアが微笑めば、世界は優しく応えてくれるわけでもない。
「それから、娘の婚約の件でも……どうやら揉めているとか」
名前を聞くまでもなかった。あの二人も、責任と現実を前にして噛み合わなくなっているらしい。重荷を押し付け合い、誰も舵を取らないまま、船だけが沈みかけている。
でも、私はその話題にほとんど心を動かされなかった。あの家の行く末よりも、今ここで積み上げている仕事のほうが大切だった。噂話よりも、隣で私の手を離さずにいる人の温度のほうが、ずっと現実だった。
「セレネ、ここには君が必要だ」
評価される仕事がある。力を認めてくれる環境がある。そして私を選び、手放さないと決めてくれる人がいる。
──私はここで生きていく。必要とされる私として。




