一話
「兄貴、起きなよ! 遅刻するよ!」
誰かが俺の身体をゆすって、起こそうとしている。目を開けて、声の主を見る。知らない女の子だった。部屋も知らない。
「ここはどこだ?」
自分の声さえも聞きなれない感じがする。
「また寝ぼけてないで、早く目を覚まして、一階に降りてきなよ」
彼女が部屋から出ていき、階段を降りていく音が聞こえた。
だんだん意識がはっきりしてくる。俺の名前は、望月龍司、妹の名前は奏衣。寝て覚めると、現実感を感じられないときがよくある。家族は慣れっこで、俺も仕方がないものと諦めている。
二階までコーヒーの香りが漂ってくる。一階に降りると、母は台所に立ち、父と妹が朝食を食べていた。平日の、いつもの光景だ。
両親が同時に「おはよう」と言った。俺も同じように返す。
「ごちそうさま。兄貴も早く食べてよ。私まで遅刻しちゃうでしょ!」
「ああ、そうだったな。悪い」
妹の女子高は、俺の勤務先であるN市役所のすぐ近くにある。もっと上の高校を狙えただろうに、通学が面倒という理由で、そこを受けたのだった。結果、毎朝俺が送っている。
朝食をかき込んで、妹と家を出て、車に乗り込む。
「ねぇ兄貴、知ってる?」
「知らない」
「まだ何も言ってないじゃん」
通勤中、車内でのいつもの何気ない会話だ。
「大型トラックに轢かれると、異世界転生できるって噂」
「お前がたまに観てるアニメの話か」
「噂だってば。マジで飛び込んじゃう人いるらしいよ」
「ふ〜ん……」
ウィンカーを出して、右折できるタイミングを待つ。大型トラックが目の前を通り過ぎた。
駐車場に着くと、奏衣は後部座席に置いてあったエレキベースの入ったケースを背負う。俺が誕生日に買ってやったベースだ。
「じゃあ、行ってきます」
「なぁ、奏衣。お前、いくつになったんだっけ?」
「妹の歳忘れるとかどういうこと? 十七歳だよ」
「また交通死亡事故多発警報だよ。今度は大型トラックばかり。横断歩道のない場所での飛び出しや、路上に寝転がっていたというケースばかりだ。それも若い年代が多い」
市役所の上司が俺に、警察署から送付された通知を渡してそう言った。俺はそれをめくりながら話す。
「大型トラックに轢かれると、異世界転生できるって噂が若い子の間で流行ってるらしいですよ」
「異世界転生? なんだそりゃ?」
「恵まれない主人公がトラックにはねられて、ファンタジーな世界に転生して、都合よくすごい能力を授かって活躍するって話です。たまに妹がそんなアニメを見てます」
「は、じゃあこいつら、揃いも揃って異世界だかに行っちまったってわけか。ともかく、これじゃどっちが被害者かわからないよな」
異世界行きご希望の方、こちらへどうぞ。トラックドライバーとしてはたまったものではないだろう。
「ともかく庁内へ周知して、ホームページで注意喚起しといてくれや」
「わかりました」
家に着いて車を降りると、微かにエレキベースの音が聴こえてくる。妹が部屋で練習しているらしい。
「兄貴、おかえり!」
玄関を開けると、奏衣が二階から降りてきて出迎えた。毎日のことだ。少し歳が離れているが、昔からよく懐いてくれており、朝のあいさつと、出迎えを一番にしてくれる。
「ただいま、奏衣。また上達したみたいだな」
「文化祭がもうすぐだからね。ちょっと頑張ってるんだ。観にきてくれるよね?」
「わかってる。当たり前だろ?」
いつもの日常だ。俺か妹、どちらかが一人暮らしを始めるでもしなければ、これがずっと続くものと思っていた。




