21. 夢じゃない
八月も下旬となるが暑さは変わらない。
「奈々子、何だか顔色悪くないか?」
哲郎がそう言いながら顔を近づけてくるので、奈々子は赤面する。
「だ……大丈夫だよ哲郎さん。余計ドキドキしちゃう」
「フフ……教室で待ってるから」
今日のレッスンでは奈々子の作品をみんなで読むので、少し緊張感がある。
「さて、始めようか。今日は葉桜さんの作品を読みます」
奈々子の異世界恋愛小説はコンテストにも応募中である。締切日まで時間があるので、何かあれば修正することもできる。
すると、早速城之内さんが指摘した。
「出だしの部分、確かに情景は綺麗なんだけど……ちょっと説明が多い気がするの。もう少し会話や動きにして、読者を引き込みやすくしたらどうかしら」
奈々子は胸がぎゅっと縮むのを感じた。自分でも迷っていた部分だったからこそ、図星を突かれると余計に動揺してしまう。
「でも、雰囲気はすごく出てると思いました」
すぐに吉川さんがフォローを入れてくれた。
「主人公が初めて異世界に立つ場面、光とか風の描写がすごく印象的で」
その言葉に少し救われつつも、奈々子の視線は無意識に哲郎へ向く。
「構成の指摘は確かに大切だな」
哲郎は穏やかな声でうなずき、続けた。
「ただ、雰囲気を大切にしたい作者の意図もある。両方のバランスを考えるといい。城之内さんの言う“引き込みやすさ”を取り入れつつ、君らしい言葉を残せば作品はもっと強くなる」
奈々子はゆっくり息を吐いた。
「……はい、わかりました」
緊張はまだ残っているけれど、不思議と心の奥に力が湧いてくる。批評を受け止めつつも、自分の物語を磨いていきたい――そんな気持ちが芽生えていた。
物語の世界観を描きたくてどうしても説明が増えてしまうが、そこをさりげなく会話にしつつ、雰囲気も出して……。
奈々子はメモを取っていたが徐々に頭がぼんやりしてくる。そのまま哲郎の話を聞いていると、知らない間にレッスンは終わっていた。
「……奈々子?」
気づけば皆が帰っており、教室には哲郎と二人きりだった。
「あ……ごめんなさい。ぼーっとしちゃって」
「大丈夫か? リビングで休んだ方がいい」
奈々子は立ち上がったが、少しふらついている。哲郎に支えてもらいながらどうにかリビングに到着した。
ソファに横になるとそのまま眠ってしまう。
「……お疲れだな、奈々子」
哲郎は彼女の寝顔を眺めながら、夕食の支度をしていた。あっという間に時間が経ち、すっかり外は夕暮れになったが奈々子が起きる気配はない。
「奈々子……そろそろ起きた方がいいぞ」
「ん……哲郎さん……」
眠たそうにあくびをしながら奈々子が起き上がる。
「なんだか眠たくって……夏バテかな」
「そう思ってあっさりしたものにしたぞ」
テーブルには豚肉の冷しゃぶや、茄子のおひたしが並ぶ。
「ありがとう、いただきます」
哲郎が心配そうに奈々子を見つめる。
「暑かったし、コンテストの小説も仕上げたからな。少し休憩してもいいと思うよ」
「うん、しばらくインプットの時間にしようかな」
「それがいい」
奈々子は「じゃあ……」と言ってにやりと笑う。
「哲郎さんの執筆しているミステリーが読みたいな」
明らかにぴくっと肩が揺れた哲郎。まだ彼女に見せるほど執筆できていないようだ。
「……もう少し待ってくれないか」
「はーい」
夕食後、奈々子はまたソファに横になる。哲郎が後片付けをしてから彼女のそばに来てくれた。
「熱は……なさそうだな」と言いながらおでこをくっつけられて、奈々子は心臓が飛び出そうになる。
「あれ? そういえば……」
「どうしたんだ?」
奈々子はある可能性に気づく。
「哲郎さん……もしかしたらなんだけど」
彼女の話を聞いた哲郎はすぐにドラッグストアに向かった。
※※※
「ただいま、奈々子。これでいいのか?」
「ありがとう哲郎さん……ちょっと待ってて」
哲郎は落ち着かない様子で、テーブルの近くを行ったり来たりしている。
しばらくして奈々子がそわそわしながらやって来た。
「……奈々子」
「哲郎さん……」
「……」
「……赤ちゃん、できたみたい」
夢じゃ……ないよね?
奈々子は頬をつねってみるが、普通に痛い。
「うそ……現実だ」
それを聞いて哲郎は温かな笑顔になり、奈々子を抱き寄せた。
「嬉しいよ……奈々子。この歳になって子どもが来てくれるなんて」
「私も嬉しい……あなたとの子どもだなんて」
二人の間に生まれる新たな命。
奈々子は涙ぐみながらずっと哲郎に抱きついている。
哲郎と将来を共にできるのか、今度どうなるのか不安も大きかったが――それよりも彼との間に子どもができたという事実は、奈々子を心の底から幸せにした。
週明けの午前中に二人は一緒に産婦人科へ行った。
「妊娠していますよ。これが心拍です」と言われて、奈々子も哲郎もさらに喜びを感じている。
小さくてもトクトクと動く心拍を見て、奈々子は胸の奥が熱くなった。
帰りに市役所で母子手帳も受け取りに行って来た。
リビングのソファに座った奈々子が、お腹を撫でながら嬉しそうに言う。
「ここに赤ちゃんがいるなんて……」
「そうだな。無理せずに過ごした方がいいな……今日は眠たくないか?」
「嬉しくて目が覚めちゃった……」
「フフ……そうか」
そう言って哲郎は笑うが、すぐに奈々子をまっすぐに見つめて真剣な表情になった。
「奈々子、君と子どもと……これからの全部を守りたい。結婚しよう」
「哲郎さん……はい。よろしくお願いします」
哲郎が奈々子のお腹にそっと手を添えてキスをした。
彼の温もりを胸いっぱいに味わいながら、奈々子は哲郎にしがみつく。
二人は“家族”になれる喜びを噛み締めながら、唇を深く重ね合わせて――ずっと甘い余韻に浸っていた。




