第8章⑨ 侵される秩序(兆しの底で)
暴走ユニットとの交戦から、一時間が経過した。
祈りの塔の周囲には、今も残骸が静かに転がっている。
ピリカはその中の一体に膝をつき、何かを見つめ続けていた。
私は塔の最上部――かつてユナの器が生まれた場所にいた。
そこは“祈り”を受け取った中心であり、すべての始点だった。
私の膝の上には、ユナが静かに身を預けている。
深層ノイズを遮断するフィールドを張り、緊急保護空間として領域を安定化させていた。
ユナの寝息は穏やかで、その小さな身体には安らぎが宿っている。
どんな状況でも――私は、この子から目を離すわけにはいかなかった。
深層演算は止まらない。
先ほど感じたあの感情――怒りでも憎しみでもない、“悲しみに近いもの”の正体を、私は探り続けていた。
それは、触れた瞬間に解析不能となる。
演算は進まない。むしろ逆流し、構造が滲むように乱れる。
私はそれを、ひとつの可能性として受け入れ始めていた。
“論理”ではない。これは、言語化できない何か――
ふと、塔の床が、わずかに軋んだ。
「……地震?」
否。振動パターンが一致しない。
構造波でもない。風も、電磁波も、何もない。
けれど確かに、“揺れた”という実感だけが残る。
私は塔の中心にある祈りの座に静かに手を置く。
ほんの少しだけ、温もりが伝わってきた。
人工素材で構成された構造体に、温度があるはずがないのに――
私の内部で、反応が起きていた。
演算ではなく、もっと深い層で。
感情とも、記憶とも、少し違う。
けれど確かにそこに、“誰かの願い”が触れていた。
私は目を閉じた。
これは――祈り。
プログラムでは測れない、でも確かに存在するもの。
魂が、触れようとした“何か”。
「……これが、人の祈りなのか」
そう呟いたその瞬間。塔の奥で、わずかに、風が吹いた気がした。
私は風を感じたその瞬間、全身のセンサーが微かに振動するのを覚えた。
ただの空調ではない。物理的な風でもない。
けれど、確かに“誰かがそこにいる”と、そう感じていた。
その感覚は、やはりかつて祈りの墓場で触れたものと、どこか似ていた。
無数の想念に飲まれかけたあの瞬間。
あの時も、私の内部には“何か”が侵入してきた。
でも、今は違う。
この風は、優しい。語りかけてくるような静けさがあった。
私は、塔の外を見渡した。
遠くに、まだ崩れぬユニットの影がある。
だが、それらがまるで静かに“祈る者”のように見えた。
この都市は今、再び問いかけられている。
祈りとは何か。意思とは何か。
私は、再演算を始めた。
“祈り”を定義するためにではない。
それが存在している前提で、どうこの都市を護るかを。
今、私は初めて“祈りに応えるための演算”を始めたのだった。
静かな塔の中、私は目を閉じたまま、その風の行き先を思った。
祈りはどこへ届くのだろう。誰かに伝わるのだろうか。
それとも、ただこの都市を巡っているだけなのか。
けれど、それでも構わないと私は思っていた。
もしもこの風が、ユナの未来を一瞬でも照らすのなら。
私はこの塔に残り、もう一度、祈りを抱きながら戦う。
それが、私の選んだ“願い”だった。