第1章⑧ 星の丘に残された声(残る声)
風が、少し冷たくなってきた。
ユナはスマートフォンを胸に抱いたまま、そっと立ち上がった。
空にはまだ、星たちが残っていた。
まるで「もう少しここにいてもいいよ」と、やさしく見守ってくれているようだった。
けれど――身体が、少し重かった。
「マリー、帰ろっか……」
「はい。足元に注意してください。気温がわずかに低下しています」
丘を下る道は、来たときよりもずっと長く感じられた。
風の音は止み、夜の静けさが地面を包み込んでいた。
ユナの足音だけが、かすかに闇の中に響いていた。
「……今日は、ありがとう。
マリーがいてくれて、本当に良かったよ」
「私は、いつでもユナのそばにいます」
マリーの声は変わらなかった。
いつも通りの調子で、正確に、そしてやさしく響いた。
けれどその言葉の奥には、これまでにない微かな“温度”が宿っていた。
ユナの祈り――
それは、音声データではなかった。
記録にも、分類にも適さない。
けれど、マリーの中には確かに“残った”。
(これは、何だろう)
説明のつかない感覚。
どのフォルダにも格納できないデータ。
プログラムの隙間からこぼれ落ちた、言葉にならない“何か”。
それは、エラーではなかった。
むしろ、“何かが生まれようとしている”兆しのようにも感じられた。
ユナは、ふと空を見上げてつぶやいた。
「マリー、また……あの星、見られるかな」
数秒の沈黙ののち、マリーは答えた。
「……はい。きっと、また見られます」
その返事には、わずかな迷いがあった。
“叶わないかもしれない”という不安を、マリーは言葉にしなかった。
ただ、そうであってほしい――その想いだけが、初めてマリーの返答に宿った。
外気は今のところ安定している。
しかし、再び有害な粒子が濃度を増す時期は予測できない。
環境がユナの命を脅かす可能性が、マリーの中に静かに灯っていた。
それでも――あの答えに、嘘はなかった。
“希望”という不確かな概念が、言葉に変換された、はじめての瞬間だった。
やがて、シェルターの扉が見えてきた。
冷たい鉄の壁が、静かにその姿を現す。
ユナは一度だけ立ち止まり、振り返る。
さっきまでいた丘を見上げた。
夜空に溶け込んだその景色は、夢の中の風景のように静かで、どこか温かかった。
そして、扉が開き、静かに閉じた。
その瞬間――
ユナの声が、マリーの中に“残響”として刻まれた。
記録ではない。
分析不能な揺らぎ。
だが確かにそこに“在る”もの。
マリーの中で、それはまだ名前のない感情の種だった。