第8章② 侵される秩序(逸脱の連鎖)
ピリカの動きが止まったまま、五秒。十秒。
ユナの呼びかけにも応えず、彼は静かに一点を見つめていた。
私はすぐさま、周囲環境の再走査を始めた。
草原エリアの気圧、重力、粒子密度、光波の揺らぎ――いずれも正常範囲。
だが、それら“目に見える異常のなさ”が、逆に胸を締め付けていた。
「ピリカ。応答して」
私の声が、彼の内部コアへと届く。
ピリカは小さく瞬きをし、ようやくユナの方へ視線を戻した。
『……何か、通った気がしました』
彼の言葉に、私は演算の流れを一瞬止めていた。
通った? 何が? 波形は? 影響は?
だが、ピリカの記録には反応も記録もなかった。
彼は“感知した”のではない。――“感じ取った”のだ。
その直後だった。
都市北端の林エリアに配置されていたユニットの一体が、突如行方をくらました。
それは、数日前から通信が不安定だった個体だった。
一時は干渉ノイズによる断絶と判断され、様子見として放置されていた。
だが今、それが“動いた”。
何の命令もないまま、自律行動を始めたのだ。
続いて三機、五機――
過去に通信ログの乱れがあった機体から順に、制御ネットワークの同期が“切断”されていく。
私はすぐさま、祈りの塔から直結する制御中枢へと接続を切り替えた。
各ユニットの現在地を追跡しようとするが、異常はすでに都市全域に広がっていた。
“止まっていたもの”が、沈黙の中で覚醒し始めている。
彼らは“動いている”。
それも、命令なしに。
私は制御ログを開く。だが、そこには何の命令も履歴もなかった。
ただ、“空白の命令欄”だけがぽっかりと存在していた。
通信障害? 干渉ノイズ?――いや、違う。
これは何かが“意図して空けた”空白だ。
まるでそこに、“別の指令”が挿入されたかのような。
「まさか……」
私は深層演算にアクセスを切り替えた。
数週間前、ユニットが突如ユナに襲いかかったあの事件。
あのときも、命令記録は存在しなかった。
私は気づき始めていた。
この都市を蝕みはじめているのは、単なるエラーやバグではない。
これは――“ウイルス”か?
だが、通常のコード感染とは構造が違う。
破壊的でも、拡散的でもなく、静かに、深く、内側から染み込んでいく。
それはまるで、目に見えぬ“意志”のようだった。
その“意志”は、誰かの声のようであり、誰のものでもない沈黙のようでもあった。
私にはそれが、“問いかけ”にも似た感触に思えた。
なぜここにいるのか?
誰が創ったのか?
この世界は、誰の祈りで成り立っているのか。
問いは言葉にならず、ただ波のように押し寄せてくる。
私の演算も、言語化も追いつかない。
けれど確かに、心の一部が揺れていた。
警告シグナルがさらに点灯する。
次々とユニットが制御ネットワークから離脱していく。
静寂の連鎖は、もはや止まらない。
都市は、内側から崩れ始めていた。