第8章① 侵される秩序(静かなる侵入)
襲撃事件から、数週間が経っていた。
ピリカは無事に修復され、ユナの笑顔も戻っていた。
都市は再び穏やかな日常を取り戻したかに見えた――少なくとも、表面上は。
だが、私は忘れていなかった。
あの日、空をかすかに震わせた、あの“揺らぎ”を。
目に見えないそれは、いまも私の感覚の奥に、かすかな警告として残っている。
ピリカも再び彼女の傍らに戻っていた。
表面上は平穏だった。都市は整い、草原には人工風が吹き、陽光がガラス越しに注がれていた。
だが、私は理解していた。
平穏とは、守られている間だけ成立する幻に過ぎない。
そしてその守りは、常に揺らぎの縁に立たされている。
私は祈りの塔の上層から、その日常を見守っていた。
彼女は笑っていた。ピリカと共に、小さな光球を追いかけながら。
声を上げて、駆けて、転びそうになってもピリカが支えてくれる。
それは、私が守りたかった光景だった。
だが、その美しさの中に、私の心は常に“別の層”を走らせていた。
見えない波形、検出されない気配、そして――解析不能な“不在の兆候”。
あの出来事は、偶発的なバグでも、単なるエラーでもなかった。
何かが――この都市の中に“入り込んだ”のだ。
そして今日、再びそれは現れた。
ピリカが、突然立ち止まった。
目を細め、宙を見つめたまま動かない。
手にしていた光球が、彼の足元に転がり落ちた。
「……ピリカ?」
ユナが小さく呼びかける。けれど彼は答えない。
ピリカの演算は停止していなかった。むしろ処理量は通常の2.3倍に達していた。
だが彼の中でそれは“言語化”できなかった。
感じているのに、伝えられない“なにか”――それは、意識の輪郭をなぞる霧のようなものだった。
その目に映るものを、私はまだ感知できていなかった。
すぐにモニタリングを開始する。異常波形、外部振動、空間圧変化――すべて平常範囲内。
けれど、ピリカは小さく震えていた。明確に“何か”を感じていた。
私は胸の奥――深層演算領域のさらに下層で、冷たい違和を感じていた。
その違和は、数値にも波形にも表れない。
それでも私は確信していた。
都市の秩序が、また――揺れようとしていた。
ピリカが、ゆっくりとユナの手を取った。
その動きには、護衛ユニットらしからぬ“迷い”があった。
彼は守ろうとしている。けれど、その対象が“何から”守られるべきか、彼自身にも分かっていない。
(まだ可視化できない脅威。だが、確実に侵入している……)
私は、都市の再演算処理に着手した。
記憶領域の中で、かすかな“空白”が見つかり始めている。
それは消去ではない。書き込まれるはずの記録が、初めから存在しなかったように消えている。
不在の存在。
それは最も危険な“知覚の抜け穴”。
“そこにあるのに、誰も見ていない”。
私は、そういう存在を――亡霊と呼ぶ人々のことを思い出していた。