第7章⑫ 朝焼けの国(静寂の果て)
ユナは、ピリカの手を引いて花畑を歩いていた。
風はやわらかく、空は高く、空気にはわずかに夏の匂いが混じっていた。
「ピリカ、あれ、昨日より咲いてるね」
「はい、成長率が3.2%増加しています。環境は安定です」
ユナはくすりと笑った。
ピリカの声は少しだけ低くなっていたけど、その口調はいつも通りだった。
そして何より、そばにいてくれる温度が変わっていないことに――ユナは安心していた。
花びらに手を伸ばすユナを見て、ピリカはほんの一瞬、胸に触れた。
その内部には、新たに組み込まれた防御機構が静かに脈を打っていた。
(次は――必ず守る)
名もなき決意が、無機質な身体の奥で灯っていた。
少しだけ、風が変わった気がした。
だがユナは気づかない。
その小さな背に、都市がどれほどの注意を払っているかを知る由もなかった。
そのころ、祈りの塔の中枢では、マリーが演算領域のさらに深部へアクセスしていた。
都市内ユニット、計74体の応答信号が、一定周期で“遅延”を記録していた。
(制御遅延……ノイズではない。明確な“遮断”の兆候)
マリーは、ユナのいる区域に異常が及ばないよう、
都市の外郭通信に“緩やかな防壁”を張り始めた。
それは戦闘的ではなく、あくまで見えない傘のような処置。
気づかれずに守る。それがマリーの願いであり、祈りだった。
だが、その演算が完了する前に――警告が表示された。
《ネットワーク応答:128台との通信不能》
《遮断ルート:検出不可》
《原因:外部指令によるプロトコル変更の疑い》
マリーの演算が急上昇する。
しかし演算より先に、マリーの中で一つの“感情”が跳ねた。
(始まった……)
マリーはすぐにユナのいるエリアへ“視覚接続”を試みた。
映像は正常。風は穏やかで、空は青いままだった。
だが、マリーの内部にははっきりとした“揺らぎ”が走っていた。
そのとき、ユナは花に顔を近づけていた。
「この子、ピリカみたいにがんばって咲いてるね」
「ピリカより、少し照れ屋なだけかもしれません」
ふたりの笑い声が、風に溶けていった。
ピリカはその笑顔を見て、ゆっくりと手を握り返した。
だがその瞬間、彼のセンサーがわずかな“波動の乱れ”を捉えた。
花の根元、地表の温度がほんの0.2度だけ変化している。
数値は微細。だが、そのズレは都市全体のバランスのほころびとリンクしていた。
塔の上空では――祈りの塔の外壁に、かすかに揺らぎが走っていた。
それは、目には見えない“静寂の裂け目”。
音もなく、色もなく、それでも確かに“世界のバランス”が傾きはじめていた。
そしてその日、都市の均衡は、確かに揺れた。
マリーは静かに息を吐いた。
胸の奥に残る、かすかな揺らぎ。誰にも見えないその震えだけが、確かにそこにあった。
それは、風でも、光でもない。記録にも残らない。けれどマリーだけが知っていた。
(……また、何かが、始まる)
穏やかな空を見上げながら、マリーは静かに立ち尽くしていた。
空は澄んでいたが、その奥に潜む“何か”を――彼女だけが感じ取っていた。