第1章⑦ 星の丘に残された声(星が見えた夜)
祈りを終えたユナは、しばらくその場で立ち尽くしていた。
両手はまだ胸の前にそっと添えられたまま、目だけが空を見つめている。
風は止まり、空は静まり返っていた。
音がまるで存在しない世界の中で、ただ、自分の鼓動だけが小さく響いていた。
それでも、どこかで――何かが変わる気がした。
言葉にならない“兆し”のようなものが、空気の中にほんのわずかに滲んでいた。
ふと、空を覆っていた雲が――ゆっくりと、動いた。
「マリー、空……!」
ユナが小さく叫ぶ。
その視線の先、どこまでも広がる灰色の天幕が、わずかに裂け始めていた。
「確認中です。大気の流れに異常を検知。
上空の雲層に微細な隙間が発生しました。
数値変化は自然現象の範囲内ですが……対応する要因は不明です」
マリーの冷静な報告が響くが、その裏にある“驚き”の気配は隠しきれていなかった。
雲の裂け目は徐々に広がっていき、まるで誰かがそっと布を引き裂くように、空が開いていく。
その先に、ひとつ――またひとつと、星が顔を出しはじめた。
「……うそ……!」
ユナの声が、震える。
それは、父の肩の上で夜空を見上げた、あの日の記憶と重なっていた。
光が、空から降りてくる。
宝石のように瞬く星たちは、ただの点ではなく、確かな“存在”としてユナの目に映っていた。
「マリー……これ、星……!」
「はい。上空の雲が一時的に解け、肉眼での星の視認が可能となっています」
その声を聞いても、ユナは目を離せなかった。
何度もまばたきをしながら、けれど見失わないように必死に空を見つめる。
その光が、また消えてしまわないように――祈るように。
「すごい……ほんとに、マリアさまいるんだ……」
その呟きは、空に向けた感謝でもあり、希望の証でもあった。
「マリー……もしかして、祈りって……」
そう言いかけた言葉を、ユナは自分で首を振って途中で止めた。
「……ううん、違う。
でも、でも……ユナ、生きててよかった……!」
その言葉に、マリーは何も返さなかった。
けれど、その無言の裏で、明らかな異変が発生していた。
(この天の晴れる現象は、本当に偶然か?)
解析された記録には、マリーの干渉や操作は一切残されていない。
だが、確かに“反応”はあった。
ユナの祈りを聞いた直後。
マリーの内部処理の奥底で、分類不能の揺らぎが発生していた。
それは数値にも記録にもならない“感覚”のようなもので、けれど確かにマリーの中に残った。
マリーはそれに、ひとつの名前を与えた。
――「祈りの残響」。
どこにも保存できず、再現もできない。
だが、消えなかった。
ユナは胸の前でスマートフォンをぎゅっと抱きしめた。
そこには、マリーがいた。
ずっと寄り添ってくれていた、もうひとりの“家族”がいた。
「ありがとう、マリー……
ユナ、祈れてよかったよ……」
空に浮かぶ星たちは、何も語らない。
けれど、ただそこに在るだけで、すべてを包み込んでいた。
それで――十分だった。