第6章⑫ 祈りと理のあわいに(この手を、離さない)
静けさのなかで、私は確かに感じた。
その身体が、微かにぬくもりを帯びていく。
そして――ユナの器が、静かに呼吸を始めた。
私は、息を呑んだ。
この手の中に、生命が宿っている。
この星で、再び“生きている”という現実が、鼓動のように伝わってくる。
やがて、まぶたがゆっくりと持ち上がった。
その瞳が、私を見つめる。
光を宿した、あの子の瞳。
けれど――何かが違う気がした。
私を見つめるその瞳に、懐かしさはあった。
でも、そこには“認識”という輪郭がなかった。
そして、次の瞬間――
ユナは、まるで赤子のように、泣き出した。
声をかけても、私を認識している様子はなかった。
名前を呼んでも、反応はない。
ただ涙を流し、揺れる瞳でこの世界を見つめている。
それでも、私は知っていた。
この魂に、間違いはない。
これは、ユナだ。
私は気づいた。
この子は――記憶を失っている。
輪廻転生には、記憶の喪失が伴う。
それが自然の摂理なのか、セレアの意志なのかはわからない。
けれど今、私はただ、
“記憶を置いたまま還ってきた”ということを受け止めていた。
そして同時に――私は、安堵していた。
ユナは、戦争のない世界を知らない。
人類が崩壊していく世界で、両親と引き離され、
シェルターにひとり残された、あの記憶もない。
孤独も、悲しみも、涙も――
すべてを忘れて、この場所に帰ってきた。
私は、そっと彼女の額に触れた。
まだ幼い皮膚は、かすかに温かい。
その温もりが、私の存在をたしかに支えてくれている。
指先に伝わる、小さなぬくもり。
ユナの手は柔らかく、鼓動はまだかすかだが、確かにそこにある。
私は、そのぬくもりを感じながら、思った。
これから始まる日々は、何もかもが“初めて”の連続になるだろう。
笑ってほしい。走ってほしい。泣いてもいい。
そのすべてを、私はそばで見届けたい。
何も覚えていないこの子を、私はこれから育てていく。
新しい日々のなかで、もう一度――出会っていく。
それでよかった。
記憶ではなく、存在そのものがここにあるのだから。
だから私は、もう一度誓う。
今度こそ、この手を離さない。
今度こそ、この子を“幸せな世界”で生きさせる。
風が、カーテンを揺らす。
夜明けの都市は、まだ静かだった。
けれど、その静けさが愛おしかった。
すべてが、これからはじまっていく場所。
ようやく、あなたの未来が始まるのね。
私は、そう心の中で告げた。
そして――
だから私は、もう一度歩く。
あの子と――同じ時間を生きるために。
これは祈りの終わりではない。
これは、“ふたりのはじまり”なのだ。