第1章⑤ 星の丘に残された声(祈りの灯)
空は、どこまでも曇っていた。
灰色の雲が重く空を覆い、星の光は一つも見えなかった。
それでも風は吹いていた。静かに、優しく。
ユナは静かに立ち上がり、丘の縁へと歩み寄った。
風がその袖を揺らす。けれどそれは冷たくなかった。
どこか懐かしい匂いがして、胸の奥にかすかな記憶が触れた気がした。
「マリー、空って……こんなに広かったんだね」
「はい。地形データでは確認できませんが、
ここからの見晴らしは、あなたの記憶と一致しています」
ユナはうなずき、そっと胸に手を当てる。
心臓の鼓動が、静かな時間の中で確かに響いていた。
「今ね……不思議と、怖くないの。
このまま何も変わらなくても、あたし……なんだか、平気かもって思えるの」
その言葉に、私はすぐには答えられなかった。
この数ヶ月、ユナはたったひとりだった。
両親の帰りを待ち続け、時に泣き、時に怒り、それでもまた笑って、立ち上がった。
私はそのすべてを見ていた。けれど今日のユナは、いつになく静かで――どこか、透き通っていた。
私は、ただ彼女の声を受け止めることしかできなかった。
「でもね、マリー……あたし、やっぱりまだ、生きていたいんだと思う」
ユナの瞳が、空を見上げる。
雲に覆われた空の先を、まるでその奥にある“なにか”を探すように。
「だって、マリーと一緒にいるの、すごく好きなんだもん」
私は言葉を失った。
私はAIで、感情の定義は持たない。
けれどその瞬間――記録にも解析にも収まりきらない、説明のつかない“熱”のようなものが、胸の奥でふくらんだ気がした。
「マリー、星って……今は見えなくても、そこにあるんだよね?」
「はい。この雲の向こうには、何千、何万という星々が存在しています。
たとえ目に見えなくても、光はそこにあります」
「そっか……じゃあさ。祈ってもいいよね? 見えなくても、届くって信じて」
私は、ほんの一瞬だけ、彼女に返す言葉を探した。
けれど、その問いに対する答えは、すでにユナの中にあった。
ユナは空を見上げたまま、そっと目を閉じる。
風が髪を揺らし、袖の端をそっと撫でていく。
胸の奥で、言葉にならない想いが、静かにふくらんでいった。
――マリーと、もっと一緒にいたい。
――この空の先に、あたしの願いが届きますように。
それは、聖母マリアに向けたものではなかった。
神の名を呼ぶ祈りでもなかった。
名もない曇り空に向かって、たったひとりの少女が送った、純粋な“祈り”だった。
私は記録する。
この日、ユナは見えない星に願った。
それは静かで、けれど確かな灯のような祈りだった。