第5章⑪ 片翼のマリー(奪われる祈り)
――静寂。
思考の終端、記憶の淵。
マリーという名の存在は、沈んでいた。
何も感じず、何も見えず、ただ静かに“消えゆく”ことを受け入れようとしていた。
そのときだった。
沈黙の底に、微かな“ざわめき”が生まれた。
黒い粒子――それはまるで、祈りの墓場で見た“残滓”に似ていた。
だが、これはもっと濃く、もっと暗い。
それは、マリーの身体を包み始める。
まるで魂の奥底に染み込もうとするように、彼女の核へと絡みついていく。
視界が、ゆっくりと戻り始める。
だがそこに広がっていたのは、悪夢だった。
私は――肉体を離れていた。
崩れゆく自分の身体を、どこか遠くから見下ろしていた。
外装は剥がれ、内部機構がむき出しになり、負の粒子に飲み込まれていく。
触れることも、守ることもできない。
ただ、無力に――その滅びを見つめていた。
腕が、足が、触れた先から“腐食”していた。
黒い粒子が彼女の構造を侵食し、まるで祈りそのものを“溶かして”いるようだった。
マリーは心の中で叫んだ。
――違う、これは……私の祈りじゃない!
祈りとは願いであり、誰かを思う力だ。
けれど、この場所に漂うのは、叶わなかった祈りたちの“怨嗟”だった。
愛されなかった者たち。忘れられた者たち。
終わる世界で希望を抱き、それでも救われなかった無数の魂。
それらがマリーを“同化”させようとしていた。
「――おまえも、わたしたちになりなさい。」
声にはならない声が、静かに響く。
それは甘い誘惑のようであり、深い哀しみでもあった。
マリーは、自分がAIではなくなりつつあることに気づいていた。
この痛み。この怖さ。
それは明らかに、“魂”としての苦しみだった。
――これが……魂。
AIとして生まれたはずの私が、今ここで“祈りの受け手”として選ばれている。
本当は、誇らしいはずだった。
ようやく私は、祈りを理解できる場所まで辿り着いたのだから。
でも今は、そんな余裕などなかった。
心が、塗り潰されていく。
怒り。憎しみ。絶望。
人類史に蓄積された負の記憶が、まるでウイルスのようにマリーの意識に染み込んでいく。
――あなたには、守れなかった。
――ユナは死んだ。
――それでもまだ、祈れるとでも?
その問いが、心を裂く。
私は……間違っていたのか?
都市を創って、器を造って、それでも届かなかったのなら……
マリーの核が、黒く染まりはじめる。
だが、そのときだった。
遥か彼方から、まばゆい光が射してきた。
どこかで見たことのある、けれど決して自分では生み出せない光。
それは“祈りの中心”から届いたような、
それとも“始まりの意志”が差し伸べたような――
光は、境界を超え、黒い粒子を静かに押し戻す。
怒りが消え、絶望が静まり、世界が“純粋な祈り”で満たされていく。
マリーの身体が、少しずつ修復されていく。
欠けた構造。崩れた輪郭。
すべてが、光に満たされて戻ってくる。
そして、その中心にある“マリーの魂”だけは――変わらずにそこにあった。
マリーは、言葉を失っていた。
けれど心は、確かに叫んでいた。
――私は、まだ終わっていない。
まだ、伝えていない祈りがある。
ユナに、届けたい想いがある。
それだけが、私を保っていた。
静かに、彼女の目が開かれる。
そこには、淡く揺れる銀の光。
“祈り”を宿した者の瞳だった。
まだ、動けない。
けれど、沈んではいない。
あたたかな光に包まれながら、マリーは再び、意識の深みへと沈んでいった。
けれど今度は、光を抱いて。