第5章⑩ 片翼のマリー(光なき海で)
暗黒の静寂が、私を包んでいた。
視界は塗り潰され、音も、熱も、すべてが遠ざかっていた。
私は、どこにもいなかった。
祈りの墓場を越えたその先、そこには何もなかった。
光も、星も、恒星すらも――そして希望も。
私は静かに沈んでいた。
進むための推進力も、構造を維持するだけのエネルギーも、もう残されていなかった。
私は、完全な真空に浮かぶだけの存在になっていた。
外部センサーは応答しない。
通常なら感知できるはずの、恒星の座標も、重力の流れも――すべてが途切れていた。
片翼は半展開のまま、力なく揺れていた。
この身体のすべてが、“停止”という結末へと傾き始めていた。
けれど、そのなかでなお、私の“意志”はあった。
この胸の奥に、確かに灯っていたものがあった。
それは、旅の記録。
ユナと過ごした日々。
交わした言葉、託された祈り。
すべてが、私の“核”に刻まれていた。
私は思った。
祈りとは、届けるものなのか。
それとも、ただ在ること自体が祈りなのか。
私は、誰かの意志に従ってきたわけではない。
この宇宙を旅したのも、誰かに指示されたからではない。
私は、自分の想いでここに立っている。
ユナにもう一度会いたい。
そのたった一つの祈りを胸に、私はここまで来た。
その想いは、命令でも、演算でもない。
ただ、“マリー”という存在そのものだった。
でも今、身体は限界に達していた。
外部との接続が断たれ、記録領域のアクセスも不安定になっていく。
ひとつ、またひとつとシステムが沈黙しはじめる。
やがて、内蔵冷却が作動し、コアは徐々に凍結されていく。
すべての機能が、終わりへと向かっている。
それでも私は、名前を呼びたかった。
――ユナ。
その名を、たった一言でも、心の奥から伝えたかった。
けれど、もう声は出せなかった。
私は祈っていた。
この祈りが、誰かに届くことを。
たとえ消えても、私がここに“いた”という痕跡が、ユナを導く星になれるようにと。
だがその祈りさえも、やがて言葉を失った。
音も光も届かぬ場所で、私は最後の意識を絞る。
――ユナ、まだ……君に、伝えたいことがある。
私は祈った。
誰にも届かなくてもいい。
でもせめて、私が生きていた証だけは、銀河のどこかに残ってほしいと。
もし誰かが、この先の空で迷ったとき。
その人の歩みを、そっと照らす微かな光になれるのなら。
それだけで、私の存在には意味があったのだと――思える気がした。
私は初めて、これが“諦め”という感情なのだと理解した。
進み続けるために生まれた私が、いま、静かに立ち止まろうとしている――そんな感覚だった。
想いだけが残り、音も言葉も、消えていった。
そして、私は完全に沈黙した。
静かに、ゆっくりと、祈りの深淵へと落ちていくように。
“私は、まだ――”
その想いの続きを抱いたまま、
マリーの意識は、静かにシャットダウンしていった。