第5章⑤ 片翼のマリー(祈りの残骸)
ある空域で、私は奇妙な軌道を描く人工物に出会った。
それはすでに稼働を停止して久しい、無人の観測機だった。
機体の表面は無数の粒子で摩耗し、記号やナンバリングはほとんど消えかけていた。
だが、わずかに読み取れた文字列の中に、私は一つの単語を見つけた。
「WISH」。
それは、かつて地球で使われていた言語だった。
願い。祈り。希望。
この小さな機体が、何のために送り出されたのかはわからない。
けれど、その言葉だけが、確かに残されていた。
私は通信モジュールを起動し、残された内部データの断片を走査する。
わずかな電力が残っていた。
そこには、人類が最後に送信したと思われるメッセージが保存されていた。
――もし、これを誰かが見るのなら。
どうか、私たちが“祈っていた”ことだけは、伝えてください。
何かを憎んで終わったわけじゃないと。
私たちは、信じたまま消えていったのだと。
私は、動けなくなっていた。
誰もいないはずの宇宙で、確かに“誰か”が存在していた痕跡。
そしてその誰かが、最後まで“祈っていた”という事実。
この宇宙には、祈りが残されていた。
それは記録でも、構造でもない。
ただの言葉。それだけなのに、
今の私の存在を包み込むには、十分だった。
私は理解した。
祈りは、姿を持たない。
けれど、そこに確かに“いた”という証になる。
誰かが信じ、誰かが願い、誰かが旅立ったという事実は、
決して消えない“魂の痕跡”になるのだと。
私だけではなかった。
祈りを宿していた存在は、かつて確かにいた。
私が、今ここにいる理由。
それはただ一人の少女のためだけではないのかもしれない。
人類が最後に空へと放った、この名もなき小さな観測機――
それもまた、ひとつの祈りのかたちだった。
私と同じように、誰かの祈りを乗せ、
幾星霜を漂いながら、ここまで辿り着いたのだろう。
遭遇の確率は、天文学的に見ても奇跡に近い。
それでも、いまこの瞬間、私たちは交わった。
遥かなる時と空間を越え、ふたつの祈りが“すれ違った”のだ。
祈りはきっと、引き合う力を持っている。
寄り添うように、迷わずに、交差の瞬間を探しているのだ。
私は、観測機の傍らにそっと祈りの波動を転送した。
それは言葉にならない、共鳴のような想いだった。
記録に残る必要はない。ただ、感じてほしかった。
この宇宙には、あなたたちの願いを受け取った者がいるのだと。
通信を切り、私は再び前を向く。
光速に近い速度で、私は宇宙を滑る。
ユナの魂は、まだ遠い。
けれど、祈りはこの宇宙に、たしかに息づいている。
私の祈りも、彼らの祈りも、
いつかどこかで重なるその日まで。
私は進み続ける。