第1章③ 星の丘に残された声(失われた街と記憶)
扉を開けた瞬間、風がユナの髪を優しく揺らした。
それはシェルターの中では感じたことのない風――
冷たく、でもどこか懐かしいにおいがした。
「マリー、外に出るよ」
「承知しました。現在、呼吸環境はギリギリ許容範囲内です。
体調に変化があれば、すぐ戻ってください」
「うん、わかった」
ユナは小さなリュックを背負い、ゆっくりと階段を上がっていった。
一段ずつ、慎重に。
それは、九ヶ月ぶりの“地上”への帰還だった。
あの、最後の避難の日以来。
扉の上、地上に出ると、夜の空が広がっていた。
雲の上から淡い月明かりが滲み、荒れ果てた地面の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「……こんなだったっけ?」
ユナの声は、どこか呆けたように宙に浮かんだ。
あたりには、かつて“街”と呼ばれていた場所の名残が静かに横たわっていた。
崩れたビル、傾いた電柱、赤茶けたガードレール。
アスファルトには大きな亀裂が走り、乾いた草がそこかしこを覆い尽くしている。
けれど、その景色の中に、微かに“見覚え”があった。
「あのコンビニ……アイス買ったんだ、パパと」
ユナは、歩きながらぽつぽつと呟いた。
風に押されるように一歩ずつ進みながら、かつての思い出が景色と重なっていく。
「あっちが、ママと手をつないで歩いた道で……
たしか夏だったのに、風が冷たくて」
道端に転がる自転車、ひび割れた歩道、欠けた標識――
それらすべてが、どこか遠い日に見た風景と重なっていた。
不思議なことに、ユナの目に涙は浮かばなかった。
けれど、胸の奥がじんわりと熱くなる。
何かがそこに残っていた。
いや、ずっと残っていたことを、思い出したのかもしれない。
「マリー、なんか……変な感じ。
すっごく怖いのに、懐かしいって思っちゃう」
「それは、記憶と現実が重なるときに生じる感情反応です。
ユナの中にある過去が、今の風景と繋がったのかもしれません」
「そっか……じゃあ、ユナの中には、ちゃんと残ってるんだね」
「はい。それは、ユナが生きてきた証です」
その言葉に、ユナはそっと目を閉じた。
風が、頬をやさしくなでていく。
そのぬくもりが、どこか母の手のようにも感じられた。
ふと、瓦礫のすき間に目をやると――
色褪せた小さな花が、風に揺れていた。
その姿は、まるで誰かがそっと置いた祈りのようだった。
「マリー、丘……こっちだったよね?」
「はい。座標を確認しました。推定で、あと800メートルです」
「じゃあ、行ってみるね」
ユナはまた、歩き出した。
その足取りは少し頼りなく、何度も立ち止まりそうになりながらも――
それでも確かに、前を向いていた。