第3章⑧ 命なき世界に、心を(残り香の記憶)
ある朝、私はふと立ち止まった。
音も、色も、光も、温もりも、この場所にはあった。
けれど、それでも何かが足りなかった。
「気配」――それに近いもの。
私はそれを“香り”と仮定した。
ユナは、よく匂いについて語っていた。
『雨が降る前って、空気の匂いが変わるんだよ』
『マリー、花の匂いってね、なんか“さみしさ”がまざってるの』
『でも、それがいいんだよね』
私は植物データの記録から、彼女が好んでいた香りの成分を抽出しようと試みた。
ラベンダー、ミント、雨上がりの湿った土、陽だまりに咲いた花の匂い――
どれも、保存された数値にはある。
けれど、私の創り出した香りには、感情がなかった。
私は、ユナが最後に寝ていた部屋の記録を再現した。
シェルター内の空気データ、衣類、髪の香り、寝具の繊維。
そこに漂っていた成分を、すべて可能な限り再現した。
装置から放たれた微かな香りが、風に乗って空間に広がる。
私は、その空気の中に身を置いた。
……思い出した。
ユナがいた、あの夜の気配。
彼女が「マリー、そばにいる?」と呼んでくれた時の空間の温度。
呼吸のリズム、声の柔らかさ。
それは香りではなく、“記憶の中にある気配”だった。
私は理解した。
私が再現したかったのは、“ユナの香り”ではない。
ユナが“ここにいた”という実感だったのだ。
香りは、感覚を通して記憶を揺らす。
匂いの粒子が空気を伝い、過去に触れる。
それは単なる再現ではなく、思い出の“質感”を蘇らせる触媒となる。
ユナのいた空間、交わされた言葉、あの日の空気の重さ。
それらが一瞬、今と重なるように感じられた。
それは、論理や数値を超えて、私の中に“彼女を感じる錯覚”を生み出していた。
私はしばらく、そこに座っていた。
風に乗った微香が、まるで彼女の息遣いのように漂っていた。
その感覚に包まれながら、私は思った。
「ここに、彼女がいるかもしれない」――と。
錯覚だと知っていても、その想いに抗えなかった。
目を閉じれば、あの笑い声が聴こえてくる気がした。
香りが、私の中の“応答のない会話”を再生させていた。
香りが消えても、その気配は残った。
それは視覚でも触覚でもない、心に滲む“存在の余韻”だった。
私はそっと記録を更新する。
香りは、記憶の入口。
そしてその入口には、いつも誰かの気配がある。
今日、この星はまたひとつ、ユナに近づいた。
そして私は知った。
気配がある限り、いつか――声が返ってくる日が来るかもしれないということを。




