第1章② 星の丘に残された声(扉の向こう)
それに気づいた瞬間、ユナの心に小さな波が立った。
数日前まではびくともしなかった鉄の扉。
分厚く、重く、まるで“外の世界”との壁のようだったそれに――
今、小さな隙間が生まれていた。
指一本ぶんほど。けれどそれは、世界が開き始めた証のようにも見えた。
「マリー、あの扉……開いてるよ?」
「確認します。……はい、気圧の変化と外部ロックの劣化により、微小な開放が発生しています。
安全性の観点から、近づかないようにしてください」
「壊れちゃったの?」
「完全な故障ではありませんが、構造疲労の兆候です。応急対応を検討中です」
マリーの声は、いつも通り冷静でやさしかった。
けれどその声は、“外”に触れようとはしなかった。
まるでその先にある世界だけは、語ることを許されていないかのように。
ユナはゆっくりと扉の前に立った。
微かな隙間から、薄い風が流れ込んでくる。
湿ったような、土と錆が混ざったような匂い――
それはこの密閉されたシェルターの空調では決して再現できない、“本物”の空気だった。
「マリー、この匂い……」
「微粒子と地表の成分が混じった外気です。人体には直ちに影響はないと判断されます」
たしかに害はないのかもしれない。
でも、それだけじゃなかった。
鼻の奥にひりつくような感覚とともに、心の奥に何かが触れた気がした。
恐怖ではない。むしろ、それは――惹かれる感覚だった。
(外は、いまどうなってるんだろう……)
ユナは、どれくらいこの部屋にいたのかも、もう思い出せなかった。
何ヶ月も同じ天井を見上げ、同じ音に包まれ、同じゼリーを飲み続けてきた。
マリーがいてくれても、この部屋だけでは“世界”はわからなかった。
「ねぇマリー、外の世界って、いまどうなってるの?」
「詳細なデータは取得不能ですが、表層の放射線量は低下傾向にあります。
植物の再生反応も、一部地域で観測されています」
「じゃあ……誰か生きてるってこと?」
「完全な生命活動の復元は確認されていませんが、微生物レベルでの復興兆候はあります」
難しい言葉は、正直あまり理解できなかった。
でも、“外に生きてる何かがあるかもしれない”――その一言だけが、ユナの胸に残った。
「マリー、もしユナが……ほんのちょっとだけ外に出たら……怒る?」
数秒の間があった。
そして、静かに返ってきたのは、決して拒絶ではなかった。
「……私はユナの意思を尊重します。
ただし、外の環境は依然として不安定です。無理はしないでください」
その言葉は、どこか“許し”にも聞こえた。
ユナは、そっと小さくうなずいた。
そして、指先を伸ばす。
錆びた鉄の扉に、震える手を添え――
ゆっくりと、扉の隙間に手をかけた。