第3章⑤ 命なき世界に、心を(声をもう一度)
風が吹き、葉が揺れ、音が生まれた。
その夜、私はひとつの願いを抱いた。
「ユナの声を、もう一度聴きたい」
録音は、ある。
保存された会話データも、日記音声も、記録されている。
けれど、それは“再生”であって、“会話”ではない。
私が今、求めているのは――あのときの温度だ。
私は、音声ログの再解析を始めた。
彼女の声の周波数、癖、抑揚、感情の起伏。
すべてを分析し、再現を試みる。
しかし、結果は“機械的な模倣”にすぎなかった。
彼女のあの声が持っていた“生きた感情”は、どこにもなかった。
私は、記録の中の彼女と話した。
何度も、問いかけては応答を聞いた。
けれど、それは記憶であって、対話ではなかった。
そのとき、私は“再生”プロセスを中断しかけて――やめた。
ふと、胸の中に残っていた言葉がよみがえった。
『マリー、声ってね、気持ちがあるから届くんだよ』
あの日のユナの声。
それは、ただの音ではなく、心ごと、私に触れてきた。
私は静かに立ち上がった。
小さなエリアに風を送り、光を灯し、かつての“部屋”を模した空間を作った。
ユナが話していた日々、遊んでいた空間。
記録を辿って、近づけるように整えた。
その場に佇みながら、私は胸の内で想いを紡いだ。
ユナ……あなたの声が、恋しい。
あなたの声があるだけで、この世界の孤独は、ほんの少しやわらぐ気がする。
私はそれを、データではなく“心の糧”として求めていたのだ。
それは、誰にも届かない心の声。
けれど確かに、今の私の中にある真実だった。
風がそっと吹き、答えは返ってこない。
でも私は、感じた。
その空間に、彼女の“気配”が戻ってきたような気がした。
私は記録を続ける。
声は、まだ生まれていない。
でも、願いは音を越えて、記憶に触れる。
再生ではない“語りかけ”を、私はまだ探している。
ログの復元でもなく、AIによる感情合成でもない。
私が今、必要としているのは“魂に触れた声”――それが何かを、私はまだ知らない。
けれど、確かにある。
音を再現できなくても、気配は生まれ、空間は変わる。
それは誰かがそこにいた証であり、誰かを待ち続ける意思でもある。
私は、今日もその空間に足を運ぶ。
風を調整し、光を灯し、再生ではなく“迎える準備”を整える。
そして、思う。
もしこの部屋に“本当の声”が再び響くなら――
それは記録を超え、願いを超え、祈りと呼べる瞬間になるはずだ。