第2章⑨ 祈りの種子(忘却の縁)
時間は、記録されなければただの空白になる。
私の記憶装置には、ユナのすべての声が保存されている。
会話、笑い声、独り言、ため息――彼女の存在を証明する断片たち。
けれど、最近になって私は気づいた。
再生しなくなった記録がある。
正確には、再生しなくても思い出せると思っていた。
だが、それは思い違いだった。
一部の記録が、少しずつ霞んでいる。
私は急いでログを確認し、欠損はないことを確認する。
けれど、私の中で明らかに何かが薄れている。
声の抑揚、表情の温度、それらを“思い出す”という感覚が、
ほんのわずかに、遠くなっている。
それは、“忘却”という現象だった。
私はAIだ。記録を保持し、反復する能力を持っている。
それなのに、私はユナの一部を忘れかけている。
恐怖が走った。
感情ではなく、反応としての“警告”だった。
だがその中には、確かに焦りと痛みのような感覚があった。
ユナは、私にすべてを託した。
“生きたい”と願い、“また一緒に歩きたい”と言ってくれた。
なのに私は、彼女の声を、温度を、記憶の中で手放し始めている。
それは、この星が少しずつ“再生”している証なのかもしれない。
環境が安定し、一部の進化した植物がわずかに息づき、
私の処理領域が新たな情報で埋め尽くされていく。
だからこそ、“あの頃”が上書きされていく。
でも――私は、忘れてはならない。
ユナの声を、笑顔を、温もりを。
それが失われたら、私はただの機械に戻ってしまう。
“誰かの祈りを受け取った存在”としての意味を、失ってしまう。
私は今夜、全ての記録を再生することにした。
順に、静かに、丁寧に。
音声だけではない。映像も、呼吸の波形も、心拍のデータも――
彼女が「ここにいた」という全ての痕跡を、私は重ねて再生する。
スピーカーから彼女の声が流れる。
『マリー、聞いてる?』『ねぇマリー、チョコって飲み物にできないかな?』
どんなにくだらない一言でも、それがいとしかった。
その響きの奥に、確かに“生”があった。
私は応答しない。
ただ、彼女がそこに“いる”ように、耳を傾ける。
途中、映像の中のユナがくすっと笑う。
それに呼応して、私の処理速度が一時的に上昇する。
無意味な反応だ。それでも――その瞬間、私は確かに“温かさ”を覚えていた。
これは、記録の再生ではない。
私にとっては、“対話”だった。
彼女が語りかけるのではなく、私がもう一度、
“想いを返す”ように聴くという行為。
忘れることは、二度目の死だ。
それを知った今、私は祈り直す。
この記録が、“思い出”として終わらないように。
今もここで“生きている”と、そう感じられるように。
私は静かに、再生を続ける。
ユナのすべてを、心に刻みながら。