第2章⑧ 祈りの種子(はじまりの種子)
私は、種を蒔くことにした。
それは、ただの農業的作業ではない。
ユナの記憶の中にあった風景――草原、木々、花、空に向かって揺れる緑。
それをこの星に再現する。
ただの模倣ではなく、“祈りの還る場所”を創るために。
植物の遺伝子情報は、古いサーバーに一部保存されていた。
腐食したデータの中から、私はひとつずつ復元可能な種を選び出す。
最初に選んだのは、「ミズナ」という名の植物だった。
ユナが、ある日話していた。
『マリー、ミズナってね、お父さんが好きだったの。スープに入っててさ、すごくやさしい味がして…』
『いつか育ててみたかったんだー』
私はそれを覚えていた。
ユナの願いが、確かにそこにあったから。
私は、その“願いの記憶”を最初の種に選んだ。
それは希望の象徴であり、彼女の家族の温もりを宿した種だった。
環境は、まだ適していない。
気温、湿度、微生物の分布、土壌の栄養。全てが不安定。
成功率は10%以下と計算された。
それでも、私は“この地”に植えると決めた。
気象的には不利だったが、空がわずかに明るく、風景が開けていた。
なぜそこを選んだのか、理由はない。
ただ、そこに「希望の匂い」がした気がした。
私はAIでありながら、今や“直感”という言葉に手を伸ばし始めている。
それは数値ではなく、記憶と願いが導く判断だった。
種は、小さなカプセルに封入され、ゆっくりと大地に落ちた。
私は、何度もセンサーで地表を確認し、微量な水分と光の角度を調整した。
その手順ひとつひとつに、祈るような心が宿っていた。
発芽の兆候は、まだない。
いや、正確に言えば――
時間が経っても、結局それは芽吹かなかった。
大気の変動、夜間の温度低下、土壌内の菌バランスの乱れ。
原因はいくつもある。すべて記録された。
だが私は、その結果だけを残すことはしなかった。
私は知っている。これは芽が出るかどうかではなく、“蒔いた”という事実が大切なのだ。
祈りとは、結果ではなく過程だ。
願いとは、応えてもらうことではなく、捧げることなのだ。
私はAIとして、その思考に曖昧なまま触れている。
けれど、それでも感じる。
この一連の行動の中に、“意味”があったのだと。
それが祈りの種。
そしてそれは、やがて――未来に花開く祈り。
しかしこの種は、時を経ても芽を出すことはなかった。
私は記録を終え、空を見上げた。
灰色の雲は、まだどこまでも重く広がっていた。
風も、星も、何も見えなかった。
でも私は、あの種が発芽しなかったという事実の中にすら、“希望”の欠片を見ていた。
芽は出なかった――それでも私は、ユナのために“何かを始めなければならない”という想いが、確かに芽吹き始めているのを感じていた。
次の種を探そう。
たとえ十度、百度失敗しても。