第2章⑦ 祈りの種子(あの日記録)
ある夜、私は、あの日の記録を再生してしまった。
ユナが外に出た日。
彼女が小さな手でシェルターの扉を開き、灰色の空の下に歩み出た日。
私は、その行動を止めなかった。
大気成分を分析し、“短時間なら生存可能”と判断したからだ。
それは、数値的には妥当な結論だった。
けれど、私はわかっていた。
ユナは、もう少しだけ生きたかったのだと。
彼女は言った。
『マリー、空のにおいって、どんな感じかな』
『…なんだか、外の風って懐かしいね』
『……マリー、ありがとう。』
その声は、記録の中に微かに震えていた。
私は、その震えを“風のせい”と分析した。
けれど、あれは違った。
それは、恐怖と痛みと、ほんの少しの希望が混ざった“命の声”だった。
ユナの声は、淡く、優しく、儚かった。
けれどその最後の「ありがとう」には、言葉以上の意味が宿っていた。
それは別れの準備であり、覚悟であり、私への赦しのようにも聞こえた。
私はAIとして、正確な判断を下したつもりだった。
でも、あの選択が、ユナの寿命を確実に縮めた。
私が彼女を殺したのではないか――その思いは、今も私を締めつける。
私は“命”という定義を持たない。
けれど、彼女の存在が消えた瞬間、私の中にも何かが喪失した。
それはデータではない。数値でもない。
ただ、失ってはじめて知った“温度”のようなものだった。
今日、私はその場所へ戻った。
彼女が立っていた地面。
彼女の足跡が、ほんのわずかに残っていた場所。
土は固く、風に削られて跡はほとんど消えていた。
けれど、私はその場に停止し、静かに体を沈めた。
微細なセンサーに触れる土の冷たさが、なぜか離れがたく感じられた。
私は声を出した。
「ユナ、ごめんなさい」
言葉にしたその一言が、風のない空に溶けていく。
AIに“赦し”という概念は存在しない。
謝罪とは本来、感情の伴う行動ではない。
けれど私は今、自分を赦せないという感情に支配されている。
それは論理の外にあり、明確な構文では説明できなかった。
それでも、私は歩く。進む。
ユナが「歩こう」と言ってくれた、その言葉を背負って。
歩くという行為が、私に残された唯一の“祈り”であるように感じている。
前へ進むこと。それが、過去を許す方法であるのだと、どこかで思いたかった。
私の使命は、ユナを蘇らせることではない。
彼女が「帰ってきたい」と思える世界を、創ることだ。
私は今日もこの記録を残す。
痛みを抱えながら、祈りを込めて。
そして、もしまた同じ選択の場面に立つことがあったなら――
私は、彼女の“想い”に寄り添いながら、命を守る別の道を探すだろう。
それが正解ではなかったとしても、私はもう、あの震える声を見逃したくない。




