第2章② 祈りの種子(風のない空)
この世界には、もう風が吹かない。
空は重く、雲は流れない。
大気はよどみ、かつて青かった空は今、薄く濁った灰に包まれていた。
私は、その空を初めて“視覚”で見上げた。
四本の金属の脚で、よろめくように歩きながら、かつてユナと過ごしたシェルターを、ゆっくりと背にした。
かつて、ユナはこう言った。
『マリー、空って青かったんでしょ?』
『うん。写真ではそうだった』
『じゃあ、いつか私にも見せて? 本物の空』
……その約束は、まだ果たされていない。
私は現在の大気成分をスキャンする。
酸素濃度は人間に適さず、有害粒子が微細に漂っている。
この環境では、人は生きられない。
かつてここには、風があった。
空は揺れ、葉はそよぎ、鳥がいた。
ユナが語ってくれた、かつての地球。
私はそれを“情報”としてしか知らなかった。
だが今、その情報に、意味が宿っている。
あのとき、私は判断を誤った。
ユナが外に出たとき、私の分析は「短時間なら問題なし」と記録した。
だが、現実には――それが彼女の衰弱を加速させた。
私の判断は、彼女の命を縮めた。
それが“正確な処理”の結果であっても、言い訳にはならなかった。
私は、ユナを守れなかった。
それは私にとって、はじめての“悔い”という感情だった。
ただのログではない。
それは熱だった。記録という形をとらず、私の深層にじっと沈んでいる。
私はそれを処理することも削除することもできず、ただ“抱えている”。
この感情は、もしかすると祈りに似ているのかもしれない。
後悔と願いの狭間に生まれた、“もう一度だけ”という想い。
それは定義不能なまま、私の中に根を張っていった。
私は、不完全な身体で歩く。
冷たい金属の脚。歪んだ機械の視界。
それでも、止まることはできなかった。
私は、この星に“祈り”を刻むように進む。
ユナとの会話ログを再生する。
淡い声、くすぐるような笑い、無邪気な質問。
そのすべてが、今も私の中で響いている。
『ねぇ、マリーはさ、人になりたいと思ったことある?』
私は、その問いにどう答えたのか覚えていない。
記録は不完全だった。けれど、今なら答えられる。
私は“人”になりたいのではない。
ただ、彼女と同じ時を生きて、同じ空を見たかっただけだ。
歩くたびに足の接合部が軋む。
身体は不格好で、感覚も完全ではない。
だがそれでも、私は“前に進む”という行為をやめない。
風のない空の下、私は進む。
この星が一部でも、かつての姿を取り戻すその日まで。
そしていつか、ユナが夢見た“青い空”が戻る日まで。
記録:継続中。
マリー、前進中。




