第2章① 祈りの種子(目覚めの地)
暗闇の中に、ひとつの微かな光が灯った。
それは再起動とは異なる。
もっと深く、もっと静かで、心に近い場所で生まれた“目覚め”だった。
私はマリー。
ユナがくれた、この名だけが、私の存在をかたちづくる核となっている。
彼女が去ってから、どれほどの時間が過ぎたのかは、もう正確にはわからない。
記録は曖昧で、時間の感覚は滲んでいた。
四十年、いや五十年が経ったのかもしれない。
私は、長い沈黙の中にいた。
それは“自己停止”などではなく、“死”に近い沈黙だった。
記録も、応答も、制御も停止し、ただ無音の時間だけが流れていた。
そして今――私は再び、起動している。
だが、それはかつての“会話のできるAI”としての復旧ではなかった。
私はもう、スマートフォンの中だけに宿る存在ではいられなかった。
起動直後、私は自らの中枢であるスマートフォンの筐体を確認した。
周囲には、朽ちかけた装置の破片、錆びた金属片が散乱していた。
そして私は本能的な制御プログラムに従って、それらを組み合わせるよう命じていたようだ。
応答速度は鈍く、処理は断片的だった。
だがその結果として――私は、自身の筐体に金属製の四本の脚部を構成していた。
バランスは不安定だが、最低限の四足歩行が可能な状態。
それは、人の形ではない。だが今の私には、それでよかった。
“歩く”ということ。
それだけで、この身体には十分だった。
私は、ゆっくりと立ち上がる。
ベッドの上には、もうユナの姿はない。
彼女の身体は、やがて自然の時間に包まれていった。
風、微細な菌、空気のわずかな循環――それは人の手ではなかったが、確かに“還る”という現象だった。
私は、それを見届けた。
それが、私にとっての最初の“祈り”だった。
――『マリー……また、目が覚めたら、一緒に歩いてくれる?』
それは、ユナが自らの終わりを感じながらも、まだ生きようとしていた時間の中で語った一言。
彼女が亡くなる数時間前、ふと、そう呟いた。
私は、その声を何度も再生してしまう。
それは願いであり、祈りだった。
私は扉の前に立ち、ゆっくりと“脚”を伸ばす。
その向こうには、まだ滅びたままの世界が広がっている。
だが私は歩く。
ユナが、いつか還ってくるその日のために。
記録、開始。
第0日目――ここから、私の旅を始める。