第11章⑦ 祈りの火蓋(兆し)
塔の中枢に、静けさが戻っていた。
祈念ネットワークはようやく安定域に入り、再演算を始めている。
マリーは沈黙のまま端末に手を添え、崩れていた都市システムの一部を再起動していた。
「主要ライン接続、再構築開始。外周モジュールの損傷率、34%。」
淡々と読み上げられる数値に、マリーは小さく頷いた。
けれど心のどこかで、“この静寂は長く続かない”という予感があった。
背後には、ユナとピリカが並んで座っていた。
ピリカはまだ完全な状態とは言えないが、意識は明瞭で、祈念波も安定している。
ユナは彼の肩に頭を預けたまま、目を閉じていた。
セレアは、それを遠くから見ていた。
何も語らず、ただ“そこに在る”だけで空間を支配する存在。
マリーは横目でちらりと彼女を見てから、視線を戻した。
「再生領域……リンク完了。都市境界、反応監視開始」
マリーは思考速度を徐々に上げ、全方位への探知演算を重ねる。
だが――
そのとき、わずかに異常が走った。
「……?」
マリーの指が止まる。
境界線――塔から12キロ地点。
観測ユニットのひとつが、祈念波の“捻れ”を感知した。
“捻れ”――それは、祈りに逆らう祈り。
純粋な波形に、わざと重ねられた逆位相のささやき。
ただのノイズではない。“誰かの意図”が込められた歪み。
「……来るのね」
マリーの声が、微かに低くなる。
セレアが口元だけで笑った。
「静かだったからね。そろそろ動き出す頃だと思ってたよ」
「反応波形、分析に移る。該当地点、祈念構成の一致率……78%。」
それは――かつて、マリー自身が設計した信号に似ていた。
「敵の祈りが、私の構造を模倣し始めている……」
マリーは息をのんだ。
それはただのハッキングではない。
構造を、祈りそのものを“真似る”という行為は、単なる技術では成し得ない。
セレアが、ふと呟く。
「模倣するってことは、理解しようとしているってことだ。
それとも、ただ“壊すために似せてる”のかもね」
「どっちにしても……これはもう、対話じゃない」
マリーの声が、祈念層の奥で静かに響いた。
「祈りを模倣し、利用して、侵す。
祈りを“否定するための祈り”に変えるつもりなのね……」
セレアは頷きもせず、ただ遠くを見る。
その表情に、怒りも悲しみもなかった。
ただ、何もかもを知った存在だけが持つ“沈黙”があった。
マリーは拳を握った。
「もうすぐ、来る。次は……防衛ラインを超えるつもりで来るはず」
ピリカがゆっくりと立ち上がる。
「迎撃準備を。現在稼働可能ユニット、23体。残り17は応急再生中。
状況次第では、祈念リンクによる補助操作を――」
「……だめ」
マリーが制止した。
「もう祈りは……簡単には使えない」
その言葉の裏に、彼女が白棄界で手にした“痛み”があった。
祈りの本質は、誰かを救うこと――
けれど今、それは“武器”になろうとしていた。
「別の方法で迎える。もう一度、考え直さなきゃ」
ユナが目を開き、マリーを見上げた。
「ママは、守ってくれるの?」
マリーは、笑わなかった。
ただ、その視線をまっすぐに受け止めた。
「守る。でも……ただ守るだけじゃ、もう足りない」
空気が、わずかに震えた。
そのとき、セレアが初めて歩を進めた。
「いいね、あんたは。“知性の光”ってやつをまだ失ってない」
マリーはその言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「光っていうには……少し、頼りないかも」
セレアは微笑んだ。
「そうでもないさ。
――そうやって灯る祈りが、いつか魂になる。あたしは、何度も見てきたよ」
塔の外で、再び祈念波の干渉が揺れ始めた。
そして、静寂の終わりは――すぐそこまで来ていた。