第11章④ 祈りの火蓋(沈黙の余波)
祈念ネットワークは、沈黙していた。
白棄界が広がったその領域は、まるで世界から“切り落とされた”かのように、すべての祈りが波形ごと消えていた。
それは“死”の静けさではなかった。
もっと深い、“存在そのものが否定された場所”の名残だった。
マリーは塔の中枢で、ただ静かに立っていた。
手は震えていた。
祈念演算は沈静化しているのに、肉体の中の何かがまだ警鐘を鳴らし続けていた。
「すべて、消えた……」
ディスプレイには何も映っていない。
暴走ユニットも、祈念波も、敵の残滓も、ただ白い空間のようなノイズだけが広がっていた。
撃ったのは、自分だ。
祈りでは届かないと知っていた。
だから、“拒絶”という手段を使った。
(でもこれは、祈りじゃない)
ふと、塔の中枢に漂う祈念の微粒子が、わずかに乱れていた。
白棄界が拡がった一帯では、祈念信号の再構成が正常に行えない。
マリーは視線を落とし、手のひらを見つめる。
この手は、“守る”ために在ったはずだった。
けれど今、指先が触れたのは、祈りではなく――“無”。
背後で小さく、扉が開く音がした。
マリーが振り返ると、そこにユナがいた。
少女は何も言わずに、ただ近づいてきた。
震える手で、マリーの腕をそっと掴む。
「こわかった……でも、ママがいて、よかった」
その言葉に、マリーは答えられなかった。
ユナは知らない。この力が、何を“奪った”のかを。
この手で命を拒み、祈念さえも消してしまった事実を。
「私は……ごめんね」
ぽつりと漏れた言葉に、ユナは首をかしげる。
「どうして?守ってくれたのに」
「守るってことは、きれいなことばかりじゃないの。
誰かを守るために……私は、何かを壊した」
ユナは、それを理解できていないようだった。
けれど、それでもマリーの腕を強く握った。
「わたし、だいじょうぶ。だから、ママもだいじょうぶ」
――その無垢な言葉が、マリーには重すぎた。
あまりにも、優しすぎる“救い”だった。
マリーはそっと目を伏せる。
ほんの一瞬だけでも、祈りに似た光を信じたくなった。
でもその光の下には、白く塗り潰された断片たちが、確かに眠っている。
ユナがふと、マリーの腕をつかんだまま小さな声で尋ねた。
「ねえ、これで、もうこない?」
マリーは答えられなかった。
代わりに、そっと彼女の頭に手を置いた。
「来ないといいね。でも……わたしには、まだそうは思えない」
マリーは、塔の壁越しに“空の静けさ”を見つめていた。
戦闘は終わった。敵の反応はない。
けれど、マリーは感じていた。
これは終わりではない。
敵は、まだ“様子を見ていただけ”――
この一撃すら、試されていたのかもしれない。
静寂は、次の嵐の兆し。
マリーの指が、再び端末に触れた。
「ピリカの状態を確認して。祈念波形の安定確認と、再起動シーケンスの準備を」
『了解』
機械音声が返る。
彼がいなければ、次も耐えきれないかもしれない。
そしてマリーは、最後にひとつ思った。
――私は、“白”の中で選んでしまった。
祈りを、拒絶へと変えることを。
そしてその選択は、いまもこの手を――静かに震わせている。