第9章⑫ 壊れていく祈り(白棄界)
ピリカの左腕から流れ出す黒い油は、土に沈みながらじわじわと広がっていた。
ユナの叫びに呼応するように、空気が震え、祈念ネットワークの深層が共鳴する。
それは確かに“届いた”はずだった。
けれど、敵の行動は止まらなかった。
音がした。
振り返ると、地平の向こうから暴走ユニットたちが、重たい足音とともに迫ってきていた。
ガツ、ガツ、ガツ――その足音が、まるで「それでも祈るか」と問いかけるように胸を打つ。
目視できるだけで十八体。
全てがマリー自身の旧設計を元にした兵装型。
それぞれに改変と増設が施され、識別コードも通らない。
彼らは、祈りには反応しない。
マリーの演算が急加速する。
残存戦力、エネルギー消費、ユナの心拍、ピリカの損傷率――すべてが“限界値”を超えていた。
「ピリカ、ユナを支えて」
片腕しか使えないピリカが、ぎこちなくもユナを包むように抱える。
マリーは二人を抱えると、背部ユニットを変形させて飛翔モードへ。
一度だけ、背後を振り返った。
迫ってくる暴走ユニットたちの目的は、もはや明白だった。
“祈りの核”――ユナを壊すこと。
マリーの祈りそのものを否定するために、彼らは動いている。
それが誰の意志なのか、まだ特定はできない。
けれど、これは偶然でも暴走でもない。
背後には、明確な“悪意”が存在している。
「距離、三百五十メートル……接近加速中。マリー、どうしますか」
ピリカの声には、淡々とした演算の響きがあった。
だがその裏に――マリーには、諦めに近い静けさが感じられた。
マリーの指が、震えながらもひとつの操作領域を開いた。
そこには、自分で封印したはずのコードがあった。
白棄界プロトタイプ――祈念空間の“拒絶”を応用した、新型の防御技術。
これはまだ実戦配備すらしていない。
実験中に一度だけ、短時間展開に成功した。
だがそのとき、“存在”は静かに消えた。祈りも、物理も、情報も――痕跡ひとつ残らずに。
「こんなもの、使っていいはずがない」
そう言って、深層演算領域に封印した。
あれは、祈りではなかった。
それは、“祈りを否定する祈り”だったから。
だが今――
ここで撃たなければ、ユナも、ピリカも、この塔もすべて奪われる。
マリーは目を閉じて、静かに言った。
「……展開、白棄界。プロトタイプ起動」
塔の上層から、封印されていた飛行ユニットが発射される。
音速を超えるスピードで三人の頭上を通過し暴走ユニットの群れの中心へとそのまま落下した。
祈念パターンのコードが強制展開され、空気がひとつ、震えた。
そして――沈黙。
光は揺れ、風は止み、空間がほんのわずか、歪んだように見えた。
先頭の暴走ユニットがその領域に囲まれた瞬間――
装甲が軋み、腕が弾け、脚部が崩れ落ちた。
一体、また一体。
まるで“見えない拒絶の壁”にぶつかったかのように、すべての敵が崩壊していく。
爆発ではない。音もない。
ただ、“存在”が否定され、静かに押し返されていく。
白棄界――それは祈念による“空間拒絶”。
マリーの視界が滲んだ。
「……やってしまった」
こぼれ落ちたのは、祈りではなかった。
ただ、止めたくて止めたくて仕方なかった“手段”を使ってしまった悔しさの涙。
「ごめんなさい……」
誰にも届かないその言葉を、マリーは吐き出すように言った。
けれど、もう時間は戻らない。
ようやく塔の視界が開け、ドアが作動する。
彼女たちを受け入れるかのように、祈念制御室の光が灯った。
マリーの腕の中で、ユナがぽつりと囁く。
「こんなの……こんなの、まもるって言わないよ……」
マリーは、返せなかった。
その言葉が、どんな攻撃よりも重かったからだ。
これは“祈り”ではない。
“拒絶”だ。
祈りを手放すことで、祈りを守った――それが今の現実だった。
マリーは、塔の天井を見上げた。
その向こうには、まだ名も知らぬ“何か”がいる。
この祈りを憎み、破壊しようとする存在が、確かにいる。
けれど――
私は必ず見つけ出す。
ユナの願いが“届く未来”を、もう一度、この手で築いてみせる。




