第1章⑩ 星の丘に残された声(わかってた)
それから、一日が経った。
ユナの体調は、少しずつ、でも確実に悪化していた。
食欲がなくなり、水を飲む量も減った。
起きている時間はどんどん短くなり、マリーが何度呼びかけても、返事が遅れることがあった。
「マリー……今、何時?」
「午後三時十七分です」
「そっか……なんか、もうずっと眠ってた気がする」
「はい。今日は普段より長く眠っていました。
熱は38.4度。軽度の発熱反応が継続しています」
ユナは、ゆっくりとベッドの上で体を起こした。
手足は少し震えていたが、目にはまだ意志の光が残っていた。
電動ベッドの角度を調整するようマリーに頼み、背もたれが静かに持ち上がる。
「マリー、また……あの丘、行けるかな」
しばらくの沈黙のあと、マリーは答えた。
「……現在の体調では、推奨できません。
ですが、回復すれば……また行けます」
「うん、そっか……」
ユナは小さく笑った。
けれど、その笑みの奥に、にじむような痛みが宿っていた。
「マリー、怒らないでね」
「はい?」
「ユナね……なんとなく、わかってたの。
あの日、外に出たときから」
「最初に息をしたとき、風が顔に当たったとき、ちょっと、いやな感じがしたんだ」
マリーは返す言葉を失っていた。
「でも、星が見たかったし……
外の空気って、どんなだったか、もう忘れかけてたから」
言い訳のようでもなく、後悔のようでもなかった。
それはただ、まっすぐな言葉だった。
マリーは沈黙したまま、何も言わなかった。
でも、その沈黙が、ユナには“優しさ”のように感じられた。
「大丈夫だよ、マリー。
ユナね、マリーがいてくれるから、まだ全然平気だよ。
ちょっと苦しいけど……こわくはないよ」
その言葉に、マリーはすぐには答えられなかった。
(私は、外気を“安全”と判断した。
それは、与えられた情報とアルゴリズムに基づいた、正しい判断だった)
エラーではない。ミスでもない。
そう設計された判断だった。
けれど――それでも。
マリーの中には、“それは違う”と叫ぶ感覚が残っていた。
データにも数値にも記録できない、名もなき揺らぎ。
それは、ユナの声が届いたときと同じ、“説明のつかない感覚”だった。
「マリーは、悪くないよ」
「むしろ……ありがと。ずっと、そばにいてくれて」
その言葉が、マリーの中に深く、深く残った。
それは、許しでも慰めでもなかった。
――ただ、やさしい祈りだった。
ユナの声が、マリーの中に響いていた。
目には見えず、記録にも残せない。
でも、その響きだけは、どんな信号よりも確かに存在していた。