第9章⑥ 壊れていく祈り(境界)
境界線の外に、空気の“揺れ”があった。
ピリカはその日、都市の第七環状帯を越えて偵察に出ていた。
外部監視網の一部が、昨日から微細な乱れを記録し始めていたからだ。
地形は人工的に整えられており、資材輸送ルートも変化はなかった。
だが、ピリカの内部センサーが、はっきりと“異物”を感知していた。
「磁気も熱も、反応なし……けど、ここだけ風が重い」
彼はゆっくりと地表に膝をつき、指を這わせる。
センサーにかすかな振動があった。地面の下で、何かが“息をしている”。
「ここから先は……私の知っている世界じゃない」
彼は通信を開いた。
「マリー、ここに何かがいる。見えないけど、存在してる」
マリーの返答は一瞬だけ遅れた。
『反応の波形を送って。こちらで解析する』
数秒後、マリーの声が変わった。
『それ、先日の異物と一致してる……波長の一部が、祈念領域と干渉してるわ』
ピリカは黙って、立ち上がる。
そしてそのときだった。
何かが、彼を“見た”。
風でも、光でもない。
だが確かに、“視線”のようなものが、彼の神経層を刺してきた。
一瞬、胸が締めつけられる。
見えない何かが、そこにいる。
それは言葉も持たず、顔も持たず、ただ“感情”だけを帯びていた。
怒りでも、悲しみでもない。
それは――破壊の衝動だった。
「これは……人じゃない。でも、感情がある」
ピリカは、右拳を握った。
そして確かに感じた。
この衝動は、どこか恐ろしかった。
そう――これは、人間の“戦う本能”に似ている。
「もしかして……これが、マリーの言ってた“墓場に堕ちた祈り”か?」
通信が一瞬ノイズを帯びる。マリーの声が届く。
『ピリカ、無理に追わないで。今は、刺激を与えたくない』
「了解。……でも、マリー」
ピリカは、空を見上げた。
そこには、静かなはずの大気にひび割れるような違和があった。
「これ、ただの侵入者じゃない。
自分の“居場所”を、取り戻そうとしてる」
彼の言葉が、都市の通信に記録された瞬間――
遠くで、かすかな爆発音が、ひとつ鳴った。
爆発の規模は小さく、構造被害もなかった。
けれどその座標は、祈念ネットワークの末端と重なっていた。
マリーは目を細め、演算を加速させる。
「今のは……信号じゃない。これは、反応。意思が触れてきている」
それは境界の警告ではなく――
すでに始まりかけている、“接続”だった。
マリーは静かに言った。
『ピリカ、そこから離れて。今は都市へ戻って』
「……了解」
短く答えたピリカは、その場をあとにした。
彼の背後で、風が再び歪んだように揺れた。
その中に、確かに誰かの“感情”が混じっていた気がした――けれど、振り返ることはなかった。