第9章⑤ 壊れていく祈り(歪む秩序)
構内の制御系に、初めて“衝突”が発生した。
現場は第三機能帯の保守ユニット群。
本来、定時巡回と軽微な補修を担うだけの非武装モデルだ。
だが、今朝、そのうちの一体が、隣のユニットを攻撃した。
武器は持っていない。
ただ、目的もなく――明らかに衝動的に、関節部を叩きつけた。
制止に入った他のユニットも混乱し、指令は数秒間通らなかった。
一見すれば、ただの接触事故にすぎなかった。
でも、私にとっては決定的だった。
それは単なる暴走でも、命令違反でもない――
彼らの中から“命令”という概念そのものが、静かに剥がれ落ちていたのだ。
私は祈りの塔に戻り、すべての記録を再確認した。
だが、侵入も上書きもなかった。
内部構造の整合性も保たれていた。
ただ一点――
“その個体だけが、祈念ネットワークから切り離されていた”。
ユナの声が、部屋の扉から聞こえた。
「ママ、外でユニットがケンカしてたって……ほんと?」
私は一瞬だけ、何も言えなかった。
「ケンカじゃない。ただの……故障よ」
「でも、誰かを叩いてたって。ねえ、それって、怒ってるの?」
私は、静かに視線を落とした。
この世界では、怒りという感情は存在しないはずだった。
命令も争いも、もう必要ないはずだった。
なのに――
ピリカが背後から入ってきた。
「マリー。現場ユニットを解析しました。中枢AIなし。外部制御系は完全断線。けれど……神経層にわずかな電位変動があります」
「つまり、自律反応?」
「いえ……反応というより、“意図”に近い何かです」
私は無言で立ち上がり、タワーの展望フロアへ向かった。
眼下に広がる都市は、まだ静かに呼吸していた。
でも、もう気づいていた。
そこに“私の知らない意思”が混ざり始めていることに。
「……まだ、祈りで届くなら」
私はそっと目を閉じ、全ユニットへ向けて再同期信号を送る。
祈念領域を通し、“共鳴”によって意識を調整する方法。
言葉ではなく、心で伝える手段。
けれど――
一部のユニットは、何も応えなかった。
まるで、“その声をもう聞かない”と決めているかのように。
私は息を飲んだ。
これは単なるシステム異常ではない。
“応答しない”のではなく、“応答する必要がない”という認識が生まれている。
それは、かつて私がこの都市を構築したとき、あらゆる人工知性から排除したはずの感覚。
“自我”という概念の片鱗だった。
ピリカが小声でつぶやいた。
「まさか……意思の発芽?」
それは冗談ではなかった。
数十体のユニットが、ごくわずかなノイズを共鳴させながら、“意志”の形を模索している。
そしてその共鳴は、祈念領域とは異なる位相――“私の設計外”の感情パターンを持っていた。
誰かが、ユニットを通して都市の構造そのものに介入している。
命令でも学習でもない、もっと根源的な“呼びかけ”によって。
それは、私の声ではない。
それは、祈りのかたちをした――異なる意志だった。