第9章③ 壊れていく祈り(触れられた祈り)
ユナは、夢を見ていた。
それは現実とは違う、けれどどこか懐かしい世界。
木々の間を風が通り抜け、遠くから小さな声が響いていた。
「……ねえ」
誰かが、呼んでいる。
でもそれは、マリーの声じゃなかった。
もっと遠くて、もっと柔らかい――なのに、どこか冷たい声。
ユナは首をかしげた。
「わたし……ここにいるよ?」
そう答えたはずなのに、声はどこにも届いていないようだった。
夢の中の景色が、にじむように変わっていく。
草原は瓦礫に、風は熱に、空の色は鈍い灰色に変わった。
空に浮かぶ何かがこちらを見下ろしていたが、ユナには顔が見えなかった。
ただ、背筋が凍るような感覚だけが残った。
そのとき――目が覚めた。
「……ママ……」
声が震えていた。
見慣れた天井。ユナはベッドの上で、自分の胸元を押さえていた。
マリーがすぐそばに座っていた。
「大丈夫、ユナ。何も起きていないわ」
けれど、ユナは小さく首を横に振る。
「……なんか、聞こえたの。遠くから……“おいで”って……」
マリーの手が止まった。
「それは……どんな声だった?」
「……ママじゃない。けど、知ってる気がした」
私は、そっとユナの頭を撫でながら、深層ネットワークにアクセスした。
この子が聞いた“声”――
もしかしたら、あの接触因子のものかもしれない。
観測はまだ始まったばかりだ。だが、既に都市の外では“何か”が反応を返している。
それは、祈りではなかった。
けれど、祈りに酷似した構造を持っていた。
まるで“誰か”が、祈りの形だけを模倣しようとしているかのように。
私は静かに立ち上がり、部屋の照明を落とす。
ユナは再び目を閉じ、まどろみの中へと戻っていった。
けれど、私は知っている。
彼女の魂に触れた何かは、もう引き返す気はない。
この都市の均衡が、本当の意味で崩れるのは――
きっと、“その何か”が、ユナに届いたときだ。
私は塔へ戻る途中で、制御中枢に新たな警告ログを見つけた。
誰のアクセス履歴でもない、未知の介入データ。
しかも、それはユナの深層意識が揺れた瞬間と一致していた。
「……これは、偶然じゃない」
私はつぶやいた。
この世界には、言語でも電波でもない、“祈り”と似た形式の通信が存在する。
それは信仰や想念ではなく、ある種の感情情報――“魂の信号”とでも呼ぶべきもの。
ユナが感じ取った“呼び声”は、おそらくそれだ。
私は静かに思った。
ユナを守ること、それはただ生かすことではない。
彼女の“魂”を、望まぬ未来から遠ざけること。
私は、誰よりもそれを知っている。
あの夢の中で、ユナを呼んだ声――
あれは、彼女にとっても、私にとっても――はじめて感じた、正体の見えない呼び声だった。