幸せは歩いてくることもありますが、大体は自分から探さないと手に入らないみたいです
飲みすぎた、と自覚したのは席を立つ時だった。
尿意が近くなって手洗いに行こうと思った時、足元がふらりと軽かった。それを自覚して、自分の体のことを考えてみる。頬が熱く、少し思考が遅く、ドアノブにかけた手に上手く力が入っていない。ここでようやく酔っていることを確認した。
個室の中は人の体温やら二酸化炭素やらで温まった空気が満ちていたが、廊下に出てみると少しひんやりとしていた。
暦上は春とはいえ、今年の三月の夜は少し冷えていた。
(あー、すごいなあやちゃんは……)
トイレの中に入って一人になると少し冷静になれた。考えがクリアになっていくような気がしたが、それはきっと気のせいだ。
島田あやの結婚相手は高校時代からの恋人らしい。
同じ学校の同じサークルに入ったのがキッカケで親密になったらしい。二人は音楽サークルに属していて、旦那はドラムをやっていたそうだ。意外だったのは告白をしたのはあやの方だという。
「この人じゃなきゃダメな気がしたんだ~」と語っていた。
それを聞いた時、千咲はにわかには信じられなかった。おっとりとした性格の彼女から告白するというのは想像しにくかった。実際にあや自身も「自分でもびっくりだよね~」と言っていた。
そこからしばらく惚気話を聞かされて、集中力をエコモードにしながら適当に聞いていたのだが。
「私がここまで好きになっちゃったんだから。もしかしたら他の人に取られちゃうかもって、思ったんだよね~」という言葉にぐさりと心を抉られた。
(……あーあ、もう誰でもいいからイイ男が空から降ってきたりしないかなぁ)
独りでいると嫌なことを考えてしまう。
用を済ませて扉を開け、個室に戻ることにした。
トイレから個室までは遠くない。歩いて本当に五歩あるかどうかだ。だが、ここでまた酔いが一段と強くなってしまった。ろくに水分も取らずにアルコールだけ摂取した結果だろうか。
頭が重くなるのを感じて、転倒しまいとその場でしゃがみ込んだ。
途端に惨めだな、という気持ちが沸き上がって来て、ぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
高校生の頃、好きな人がいた。
スラリとした長身で、短く整えた猫毛の黒髪。
笑うとくしゃりとしたような笑顔がかわいくて、当時好きだったバレーボールマンガの推しキャラに少し似ていた。
分け隔てなく優しくて、時にいたずら好きな人。だけど礼儀正しくて、私達後輩をたくさんお世話してくれて、たくさん叱って、たくさん褒めてくれる人だった。
後ろ姿は大人と同じように見えるのに、瞳はまるでビー玉のようにキラキラと光っていて年相応の少年らしさを感じた。
卒業式前の部活では、今までの感謝の気持ちと少しの好きを込めて手紙を書いて渡した。
先輩の大学入学後もしばらく連絡を取っていたのだが、自身が大学受験を取り組みだしてから音信不通になってしまった。大学入学後も、学業が忙しくなった結果しだいに関係は途絶えてしまった。高校時代の友人から聞いた話によると、今は健康食品系の会社に就職をしたらしいのだが、その後のことについては何も知らない。
一応変更がされてなければ連絡先は持っているのだが、連絡を取り合っていない期間が空いてしまった分、今更連絡を取ろうとは思えなかった。
それでも時折、あの頃を思い出す。
三〇歳になってから、とか変なことを言わず。まっすぐに好きだと告白していれば、何か結果は変わっていたのだろうか。
待つのではなく、あやのように自分から行動を起こせば何かが変わっていただろうか。
あの時は関係性を崩さないようにすることが幸せだと思っていたが、友人の幸せな現在を見ると違う可能性を考えてしまう。
「大丈夫ですか? 気分がどこかすぐれませんか?」
個室の様子を見に来た店員から声をかけられた。優しい中に芯の通ったジャズピアノのような声だった。その声は昔聞いたことのある人物によく似ていた。
「れん……せん、ぱい……」
ふと、その名前を口にしていた。
見上げてみるとそこには一七〇はあるだろう身長に、猫毛の柔らかそうな黒髪。
目元の泣きホクロがマスクからちらりと覗いていた。
「ありゃ。ばれちゃったか」と、店員は一言つぶやいた。