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第二部「深層の闇」

深夜の路地裏。遠野は帽子を目深にかぶり、人目を避けるように歩いていた。佐伯の死から一週間が経っていた。その間、彼は表向き喪に服する古い同僚を装いながら、水面下で動き続けていた。


待ち合わせ場所は、かつて赤線地帯だった新宿の一角にある古びた建物だった。今では外国人向けの安宿に改装されている。観光客と地元住民が交わらないこの空間は、ある意味で日本社会の縮図だった。並行して存在しながら、決して交わらない二つの世界。


階段を上がり、指定された部屋の前に立つ。三度ノックすると、中から女性の声が聞こえた。


「どちら様ですか?」


「風の谷からです」


合言葉を告げると、ドアが開いた。中にいたのは緒方だけではなかった。もう一人、中年の男性がいた。


「長谷川博士です」と緒方が紹介した。「社会システム工学の専門家で、佐伯さんの信頼していた数少ない学者の一人です」


長谷川は無愛想に頷いただけだった。部屋の中央には古いテーブルがあり、そこにノートパソコンが置かれていた。


「早速ですが」長谷川が口を開いた。「佐伯さんから受け取ったデータを分析しました」


彼がパソコンの画面を遠野の方に向けると、複雑なグラフとネットワーク図が現れた。


「これは日本の重要インフラと土地の所有権移転パターンです。過去二十年のデータを追跡しました」


グラフは明確なトレンドを示していた。国内の重要インフラ――水道、農地、通信網、エネルギー施設、物流拠点――の所有権が、様々なダミー企業を経由して、特定の金融コングロマリットに集約されていく様子を示していた。


「きわめて巧妙な手口です」と長谷川は続けた。「一見バラバラに見える取引が、実は計画的に進められています。しかも、法的には問題のない形で」


「日本社会解体計画」と題された文書は本物なのか?」遠野が尋ねた。


長谷川は眉をひそめた。「内容の真偽は断言できません。しかし、文書が描写する所有権移転パターンは、現実のデータと一致しています」


「これを公表すべきではないのか?」


「その前に」と緒方が割り込んだ。「佐伯さんのメールサーバーから回収できたものがあります」


彼女は別のファイルを開いた。それは佐伯と、「SK」というイニシャルの人物との暗号化されたメールのやり取りだった。


「SK」は誰だ?」


「鹿島総一郎。財務省の次官です」緒方の声が小さくなった。「佐伯さんのかつての同期で、長年のライバルでした」


メールの内容は衝撃的だった。


「計画は想定以上に進行している。彼らは法改正も政権交代も待たない。すでに資金は動き始めている」


「彼らは一体誰なんだ?」遠野は呟いた。


「それが問題です」長谷川が答えた。「ネットワーク図の頂点に位置する実体が特定できないのです。通称『コンソーシアム』とだけ呼ばれています」


「このコンソーシアムの目的は?」


「日本という国家の解体と資産の再配分です」長谷川の声は冷静だった。「国土と資源と人材を、『グローバル最適』の名のもとに再配置する。もはや国家という枠組みを必要としない彼らにとって、日本は単なる経営資源に過ぎないのです」


部屋に重い沈黙が落ちた。


「だから佐伯さんは『ただの崩壊ではない』と言ったのか」遠野は窓の外を見た。夜の新宿の喧騒。あの光の海の下で、見えない力が国の土台を蝕んでいる。


「我々に何ができるんだ?」


「まず、敵を知ること」長谷川は別のファイルを開いた。「コンソーシアムと思われる存在が次に狙うのは、これです」


画面には「食料安全保障計画の廃止」「戦略的農地再配置」「水源管理の民営化」などの項目が並んでいた。それは内閣府の極秘文書のようだった。


「これが実現すれば、国民の生存基盤そのものが、特定の勢力の管理下に置かれることになります」


「緒方さん」遠野は振り向いた。「佐伯さんの改革チームのメンバーと連絡は取れますか?」


「何人かとは」彼女は頷いた。「しかし、多くは佐伯さんの死後、沈黙しています。恐怖でしょうね」


「時間がない」遠野は決意を固めた。「私たちで動くしかない」


---


国会議事堂前。昼下がりの陽光が、白い建物を照らしていた。遠野は議員会館に向かっていた。


かねてからの知り合いである野党議員、村上と面会するためだ。彼は数少ない「改革派」として知られる政治家だった。遠野がコンタクトを取ると、すぐに会うことを了承してくれた。


セキュリティチェックを通過し、村上の事務所に入る。迎えてくれた村上は、テレビで見るよりも疲れた顔をしていた。


「久しぶりだな、遠野くん」


形式的な挨拶を交わした後、村上は部屋の奥へと案内した。そこには防音設備が施されていた。


「ここなら安心して話せる。佐伯さんのことは残念だった」


「その件で話があります」遠野は切り出した。「佐伯次官が進めていた非公式の改革チームをご存知ですか?」


村上の表情が硬くなった。「噂程度には」


「私はそのチームに誘われました。そして佐伯さんの死後、彼が残した資料を受け取りました」


遠野は前夜、長谷川と緒方との会合で整理した情報を要約して伝えた。「日本社会解体計画」の存在、コンソーシアムの動き、食料安全保障をめぐる次の動きについて。


村上は黙って聞いていた。その表情からは何も読み取れない。


「証拠はあるのか?」彼はようやく口を開いた。


「はい」遠野はコピーを取ったデータを入れたUSBメモリを差し出した。「全てここに」


村上はUSBメモリを受け取ったが、すぐにはパソコンに挿入しなかった。


「遠野くん、君は何を望んでいるんだ?」


「この情報を国会で取り上げてほしい。特に食料安全保障に関する次の動きを阻止するために」


村上は深いため息をついた。


「難しいな...」


「なぜです?」


「証拠が不十分だ。陰謀論と言われれば終わりだ」


「しかし、データは―」


「データは操作できる」村上は冷静に言った。「佐伯さんの死も自殺とされている。我々が何か言えば、『政府批判のためのフェイクニュース』と片付けられる」


遠野は歯噛みした。「では何もしないと?」


「そうは言っていない」村上は声を低くした。「まず、より確実な証拠が必要だ。具体的な決定が下される場、その証拠だ」


「どこを探せばいい?」


「近々、『食料戦略会議』が開かれる。非公式だが、重要人物が集まる。そこで次の方針が決まるはずだ」


「どうすれば潜入できます?」


村上は苦笑した。「潜入なんて無理だ。だが...」


彼はデスクの引き出しからカードを取り出した。


「これは私の代理として出席できる招待状だ。体調不良を理由に欠席する。君が代わりに行け」


遠野は驚いてカードを見た。それは高級ホテルで開かれる会議の招待状だった。


「なぜそこまで?」


「この国を心配しているのは君たちだけじゃない」村上の目に決意の色が浮かんだ。「食料は国の根幹だ。それが特定の勢力に握られることを、黙って見ているわけにはいかない」


遠野はカードを受け取った。「ありがとうございます」


「気をつけろ」村上は真剣な表情で言った。「彼らは何でもする。佐伯さんのように」


---


「無茶ですよ、遠野さん」


緒方は熱心に反対していた。彼女のアパートのリビングで、彼らは食料戦略会議への潜入計画を議論していた。長谷川も同席していた。


「他に方法がない」遠野は地図を広げた。「会議は明後日、帝国ホテルの特別会議室で行われる。村上議員の代理として出席する」


「相手はあなたを知っている可能性が高い」緒方は心配そうに言った。「元内閣府の人間ですよ」


「それは承知している。だからこそ堂々と出るんだ。隠れる方が怪しまれる」


長谷川はパソコンで何かを調べていた。「出席者リストを手に入れました。財界からは五名、官僚からは三名、それに政治家が四名。他に『特別参加者』が二名」


「特別参加者?」


「名前はありません。おそらく外部からのゲストでしょう」


遠野は考え込んだ。「まさか海外からか...」


「可能性はあります」長谷川は眼鏡を直した。「佐伯さんのデータによれば、コンソーシアムの中核は国外にあるとされています」


遠野は計画を固めた。村上議員の代理として出席し、可能な限り情報を収集する。特に「特別参加者」が誰であるかを確認することが重要だった。


「私も行きます」緒方が突然言った。


「危険すぎる」遠野は反対した。


「秘書役として同行します。村上議員の代理なら、秘書がいても不自然ではありません」


彼女の決意を覆せないと悟り、遠野は同意した。


「では、明後日だ」


---


帝国ホテルの特別会議室前。遠野と緒方は、村上議員から借りたスーツと、ビジネス風の装いで立っていた。


「準備はいいか?」遠野は小声で尋ねた。


緒方は静かに頷いた。彼女のバッグには小型録音機が仕込まれていた。


招待状を提示し、二人は会議室に入った。部屋はすでに人で埋まりつつあった。スーツ姿の男性が多く、女性は二名だけだった。


「村上先生の代理ですね」受付の女性が笑顔で言った。「こちらへどうぞ」


指定された席に着くと、遠野は周囲を観察した。財界人と思われる面々。官僚らしき人物たち。そして政治家。彼らは小グループに分かれて話していた。


しかし、「特別参加者」の姿はまだ見えない。


緒方が資料を受け取り、遠野の前に置いた。「食料安全保障再構築案」と書かれている。その内容は、佐伯のデータが予測していた通りだった。


「生産から流通、販売までの一元化」

「戦略的農地の効率的運用」

「水資源管理の統合的アプローチ」


これらは全て、小規模な生産者から大企業への力の移行を意味していた。表向きは「効率化」「合理化」という言葉で飾られているが、本質は明らかだった。


そのとき、会議室のドアが開き、全員が立ち上がった。重要人物の登場らしい。


入ってきたのは二人の男性だった。一人は日本人で、もう一人は西洋人だった。


遠野は息を呑んだ。


日本人の方は、鹿島総一郎、財務次官だった。佐伯のかつてのライバルであり、メールでのやり取りがあった人物だ。


もう一人は、遠野でさえ名前を知っていた。グローバル投資ファンド「ノヴァ・キャピタル」のCEO、リチャード・スターリングだった。世界のエネルギー、水、食料分野で積極的な投資を行ってきた人物だ。


「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」鹿島が口を開いた。「本日は、日本の食料戦略の再構築について、重要な決定を行います」


彼は遠野の方をちらりと見たが、特に反応は示さなかった。


「まず、特別ゲストのスターリングさんから、グローバルな視点でのアドバイスをいただきます」


スターリングは立ち上がり、流暢な日本語で話し始めた。


「日本は素晴らしい国です。しかし、食料安全保障に関しては、根本的な再考が必要です。自給自足という古い概念にこだわるのではなく、グローバルなフードチェーンの一部として、最適な役割を果たすべきです」


彼は提案を続けた。それは表面上、理にかなっているように聞こえた。しかし、その核心は明らかだった。日本の食料生産と流通の管理権を、特定のグローバル企業(彼の会社を含む)に委ねるべきだというものだった。


「我々の分析では、日本の農業は根本的に非効率です。小規模農家の保護という名目で、実質的に税金の無駄遣いが続いています。これを改革し、効率的な大規模経営に移行することで、実質的な食料安全保障が達成できるのです」


会場からは賛同の声が上がった。反対意見はほとんどなかった。


遠野は冷や汗を感じていた。彼らの語る「改革」は、実質的に日本の食料主権の放棄を意味していた。それは国家の根幹に関わる問題だった。


鹿島が再び立ち上がった。「ありがとうございます、スターリングさん。では、具体的な政策パッケージに移りましょう。資料の2ページ目をご覧ください」


それは「緊急食料安全保障改革法案」の骨子だった。この法案が通れば、日本の農地や水源の多くが、特定の企業グループの管理下に置かれることになる。


「この法案は、次の国会で緊急提出される予定です。与野党問わず、協力をお願いします」


村上はこの会議に招待されていたのか...遠野は考えた。それとも彼だから招待されたのか。反対派を取り込むためか、それとも監視するためか。


質疑応答が始まった。ほとんどの質問は形式的なものだった。しかし、遠野は手を挙げた。村上の代理として、何か言わねばならなかった。


「遠野さん」鹿島が不思議そうに言った。「村上議員の代理でしたか」


「はい」遠野は立ち上がった。「一つ質問があります。この改革により、日本の食料生産と流通の決定権は、実質的に誰が持つことになりますか?」


会場が静まり返った。


鹿島は微笑んだ。「もちろん、最終的な決定権は日本政府にあります。我々は単に、効率的な運営を民間に委託するだけです」


「しかし、資料によれば、特定の企業グループに管理権が集中することになります」


「それは効率性のためです」スターリングが割り込んだ。「分散した管理では、グローバルな食料危機に対応できません」


遠野は続けようとしたが、鹿島が話題を変えた。


「次の質問をどうぞ」


彼は別の人を指名した。議論は別の方向に進んでいった。


会議が終わりに近づくにつれ、遠野は不安を感じていた。彼らは既に決定を下している。この会議は単なる形式だった。彼らの計画は止められるのか?


閉会の辞が述べられ、参加者たちは三々五々と退室し始めた。遠野と緒方も立ち上がり、出口へ向かった。


「遠野さん」


背後から声がかかった。振り返ると、鹿島が立っていた。


「久しぶりですね」彼は親しげに言った。「内閣府を離れてから、国際機関で活躍されていると聞いています」


「はい」遠野は警戒しながら答えた。「村上先生にお願いされて、今回参加しました」


「そうですか」鹿島は微笑んだ。「村上さんは体調を崩されたそうで。お大事に、とお伝えください」


「承知しました」


「ところで」鹿島の声が低くなった。「佐伯さんの件は残念でしたね。彼とはお近くでしたか?」


遠野は心拍が上がるのを感じた。「いいえ、特には」


「そうですか」鹿島はまっすぐ遠野の目を見た。「不思議なものですね。人は時に、自分の立場を忘れて、余計なことに手を出してしまう。佐伯さんのように」


それは警告だった。遠野は理解した。


「私は立場をわきまえております」と遠野は言った。


「それは結構」鹿島は再び微笑んだ。「では、またお会いしましょう」


彼が去ると、緒方が遠野に近づいた。「うまく録音できました」と彼女は小声で言った。


遠野は安堵したが、同時に恐怖も感じていた。彼らは監視されている。それは明らかだった。


---


「これは重大だ」


長谷川は録音を聞き終えると、そう言った。三人は再び緒方のアパートに集まっていた。


「彼らのいう『効率化』は、食料生産と流通の支配権を特定の勢力に移すことを意味します」長谷川は分析を続けた。「しかも、意図的に不明瞭な言葉で包み隠している」


「鹿島次官は私に警告を発した」遠野は説明した。「彼らは佐伯の死が自殺ではないことを示唆している」


「では彼らは...」緒方の顔から血の気が引いた。


「そうだ」遠野は窓の外を見た。「彼らは佐伯を殺した。そして、私たちも監視している」


「どうすれば?」緒方の声が震えた。


「村上議員に情報を渡す」遠野は決意を固めた。「録音とデータを。彼を信頼するしかない」


「それで十分か?」長谷川は疑わしげだった。「政治家一人で、あの勢力に立ち向かえるのか?」


「他に選択肢はあるか?」


長谷川は考え込んだ。「メディアに流すという手もある。しかし...」


「彼らはメディアも掌握している可能性が高い」遠野は言った。「最大手の新聞社と放送局のトップは、あの会議に出席していた」


「では、ネットか」


「匿名の告発は信頼されない。デジタルリンチのツールと見なされるだけだ」


三人は沈黙した。打つ手がないように思えた。


その時、遠野のスマートフォンが震えた。見知らぬ番号からだ。


「遠野です」


「村上だ」声は緊迫していた。「話がある。今すぐ会いたい」


「どこで?」


「上野公園、西郷隆盛像の前。一時間後」


通話は突然切れた。


「村上議員からだ」遠野は二人に説明した。「上野公園で会うという」


「罠かもしれません」緒方は心配そうに言った。


「かもしれない。しかし、彼を信じるしかない」


---


夜の上野公園。西郷隆盛像の前には観光客もまばらだった。遠野は一人で来ていた。緒方と長谷川には別の場所で待機するよう指示していた。


彼は像の周りをぐるりと見回した。村上の姿はない。時刻は約束の時間を五分過ぎていた。


不安が膨らみ始めたとき、後ろから声がかけられた。


「遠野くん」


振り返ると、村上がいた。普段のスーツ姿ではなく、ジャケットとジーンズという出で立ちだった。


「こちらへ」


彼は公園の奥へと歩き始めた。遠野はついていった。


人けのない場所に来ると、村上は立ち止まった。


「会議はどうだった?」


遠野は会議の内容を簡潔に説明し、彼らが獲得した録音データについても伝えた。


「証拠がある。これでコンソーシアムの意図が明確になった」


村上は沈痛な表情で聞いていた。


「鹿島に会ったんだな」


「はい。彼は警告を発してきました」


「当然だ」村上は深いため息をついた。「鹿島はコンソーシアムの日本側責任者だ。彼は単なる操り人形ではない。彼自身が設計者の一人だ」


「食料戦略会議の内容を国会で取り上げることはできますか?」


村上は悲しげに首を振った。


「できん。もう手遅れだ」


「どういうことですか?」


「議題設定は与党が握っている。彼らはこの件を隠蔽するだろう。仮に取り上げても、『グローバル競争のための必要な改革』として通してしまう」


「では、何もできないと?」


「言っている意味がわからんのか」村上の声が厳しくなった。「通常の政治的手段ではもう手遅れだ。だから私は非常手段を講じている」


遠野は困惑した。「非常手段?」


「私には別の協力者がいる。メディアにもだ。明日、全てを公開する」


「それは...」


「危険だ。わかっている」村上の表情は決意に満ちていた。「だが、これは国の存亡に関わる問題だ。手段を選んでいる場合ではない」


彼はポケットからUSBメモリを取り出した。


「これが鹿島のメールアーカイブだ。彼がコンソーシアムとどのようにやり取りしてきたかの証拠が入っている」


「どうやって?」


「聞かない方がいい」村上は苦笑した。「明日の朝、これがネットに公開される。そして、私は国会で緊急質問を行う。混乱は避けられない。だが、それが必要なんだ」


遠野はUSBメモリを受け取った。「私に何をしてほしいのですか?」


「証拠を守れ。君たちが持っているデータと、これを。何かあったら公開できるよう準備しておけ」


「わかりました」


「もう一つ」村上は声を落とした。「緒方さんを安全な場所に移せ。彼女は危険だ」


「なぜ彼女が?」


「彼女は佐伯の片腕だった。佐伯のデータにアクセスできた数少ない人間の一人だ。彼らはそれを知っている」


遠野は頷いた。「承知しました」


「では、明日の朝を待て」村上は去り際に言った。「歴史が動く日になる」


---


深夜。遠野は緒方のアパートに戻った。長谷川も待っていた。


「どうでした?」緒方が尋ねた。


遠野は村上との会話を伝えた。村上の計画、鹿島のメールアーカイブ、そして明日の展開について。


「それは危険すぎる」長谷川は眉をひそめた。「村上議員は命を狙われるかもしれない」


「彼はそれを覚悟しているようだ」遠野はUSBメモリを見せた。「このデータを安全に保管する必要がある」


「私のサーバーに暗号化して保存しましょう」長谷川はパソコンを開いた。「複数のバックアップも作成します」


「緒方さん」遠野は彼女に向き直った。「あなたは安全な場所に移動する必要があります。村上議員からの警告です」


彼女は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。「どこへ行けばいいですか?」


「私の友人が地方に持っている山荘がある」長谷川が言った。「通信環境はないが、安全だ。明日の朝、車で送り届ける」


計画が立てられ、三人は明日の朝まで仮眠を取ることにした。


遠野は窓際に立ち、夜の東京を見下ろした。明日、全てが変わる。コンソーシアムの計画が暴かれ、国民は怒りに震えるだろう。しかし、同時に不安もあった。彼らは簡単に引き下がるタイプには見えなかった。


彼はスマートフォンを確認し、ニュースをチェックした。「食料戦略会議」についての報道はなかった。完全に非公開だったのだろう。


そのとき、遠野は違和感を覚えた。村上は「明日の朝、全てを公開する」と言った。しかし、彼はメディアの協力者についても言及していた。どのメディアだろう?会議に参加していたのは大手メディアばかりで、彼らはコンソーシアムと繋がっていた。


不安が膨らんだ。村上は本当に信頼できるのか?


眠れぬ夜が明け、朝が来た。三人は早起きし、長谷川は緒方を山荘へ連れて行く準備を始めた。


「ラジオを聞いてみよう」遠野はスイッチを入れた。朝のニュース番組が流れ始めた。


「次のニュースです。昨夜、野党の有力議員である村上哲郎議員が、自宅マンションから転落し、死亡しました。警察は自殺の可能性が高いとしています」


三人は凍りついた。


「村上議員は最近、精神的に不安定な状態だったと関係者は証言しています。遺書は見つかっていません」


「ウソだ...」遠野の声が震えた。


「政府関係者は『突然の訃報に驚いている』とコメントしています。村上議員は食料安全保障に関する改革に反対する立場で知られていました」


「彼らがやったんだ」長谷川が唇を噛んだ。「佐伯さんと同じように」


「鹿島のメールアーカイブは?」緒方が尋ねた。


「ここにある」遠野はUSBメモリを握りしめた。「しかし、村上議員のいう『協力者』が誰なのかわからない」


「今はそれより、緒方さんの安全が先決だ」長谷川は立ち上がった。「私の車で今すぐ出発しよう」


その時、アパートの呼び鈴が鳴った。三人は顔を見合わせた。


「誰も知らないはずだ」緒方が囁いた。


遠野は窓から外を見た。マンションの入り口に黒いセダンが止まっていた。公安か、それとも...


「裏口から逃げるぞ」彼は決断した。「長谷川さん、車はどこですか?」


「地下駐車場の12番だ」


「緒方さん、必要最小限の荷物だけ持って」


緒方は小さなバッグに貴重品を詰め込んだ。再び呼び鈴が鳴る。今度は長く、執拗に。


三人は非常階段を使って下りた。地下駐車場に着くと、長谷川の車を見つけた。旧型のセダンだった。


「急いで」


車に乗り込み、長谷川がエンジンをかけた。しかし、駐車場の出口にはすでに黒いセダンが一台、待ち構えていた。


「裏口へ!」


長谷川はハンドルを切り、駐車場の従業員用出口へと向かった。黒いセダンも動き出した。


出口のゲートは閉まっていた。長谷川はそのままゲートに突っ込んだ。プラスチック製のバーが折れ、彼らは駐車場を脱出した。


「彼らは誰なんだ?」緒方が後部座席から前を覗き込んだ。


「おそらくコンソーシアムの手先だ」遠野は答えた。「公安を装っているかもしれない」


長谷川は都心の雑踏に紛れ込むように運転した。遠野は後ろを確認し続けたが、追跡者の姿は見えなかった。一時的に撒いたようだった。


「どこへ行きましょう?」長谷川が尋ねた。


「予定通り、山荘へ」遠野は決断した。「しかし、直接は危険だ。途中で車を乗り換える必要がある」


彼らは郊外へと向かった。緊張した沈黙が車内を支配していた。


「村上議員を信じるべきだったのか...」遠野は自問した。


「彼は本気だったと思います」緒方が言った。「だからこそ危険だった」


「問題は、彼の言っていた『協力者』が誰なのかだ」長谷川はハンドルを握りしめた。「彼らも危険かもしれない」


「それとも...」遠野は何かを思いついたように言った。「村上議員自身が罠だったのか?」


「どういう意味ですか?」


「考えてみてください。彼は我々を引き出し、USBを渡した。それは彼らが仕掛けた罠かもしれない」


「それは考えすぎだ」長谷川は否定した。「村上議員は長年、食料主権問題で闘ってきた。彼の評判は確かだ」


「もはや誰も信じられない」遠野は窓の外を見た。「それがこの国の現状だ」


---


山梨県の山奥。長谷川の山荘は人里離れた場所にあった。彼らは途中で車を乗り換え、さらに最後の数キロは徒歩で移動した。追跡者を完全に振り切るためだ。


山荘は質素だが、必要な設備は整っていた。電気と水道はあるが、インターネットはなかった。彼らはここで次の行動を考えることにした。


「まず、村上議員から受け取ったUSBの内容を確認しよう」


長谷川はノートパソコンを起動した。バッテリー駆動だが、山荘には発電機もあった。


USBメモリを挿入すると、パスワードを求められた。


「何だろう...」


三人は考え込んだ。村上はパスワードを教えてくれなかった。


「食料安全保障に関連する言葉かもしれない」緒方が提案した。


彼らはいくつかの言葉を試したが、全て失敗した。


「もう一度、村上議員の言葉を思い出してみよう」遠野は言った。「何かヒントがあったはずだ」


彼らは公園での会話を思い返した。


「彼は『国の存亡に関わる問題』と言っていた」


試しに「kokusonbou」と入力してみる。失敗だ。


「西郷隆盛像の前で会ったことに意味があるかも」緒方が言った。


「西郷...」遠野は考え込んだ。「『敵に塩を送る』」


彼は「shiwookuruJ」と入力した。Jは日本(Japan)の頭文字。


ファイルが開いた。


「当たった...」


鹿島のメールアーカイブが画面に広がった。そこには数年分のメールの記録があった。コンソーシアムとのやり取り、国内協力者とのコミュニケーション、そして計画の詳細。


最も衝撃的だったのは、「日本再編計画」と題された文書だった。それは日本を「効率的に管理するための地域」に分割し、それぞれを異なる国際企業グループに委託するという計画だった。


「これは国家解体計画だ...」長谷川の声が震えた。


「公開すべきです」緒方が言った。「何らかの方法で」


「しかし、誰に?」遠野は問うた。「メディアはコンソーシアムの支配下にある。政治家も官僚も同じだ」


「ネットだ」長谷川は決断した。「匿名で、複数のサイトに同時に」


「デジタルリンチと同じ手法か...」遠野は苦笑した。「皮肉だな」


「違います」緒方は真剣な表情で言った。「私たちには証拠がある。ただの中傷ではなく、実際のデータに基づいた告発です」


彼らは計画を立てた。山荘を出て、インターネットカフェから情報を公開する。できるだけ多くのサイトに、できるだけ短時間で。


「問題は、公開後だ」長谷川は懸念を示した。「彼らは反撃してくる。『フェイクニュース』『陰謀論』と攻撃するだろう」


「だからこそ、複数の信頼できる人たちに直接データを送る必要がある」遠野は言った。「海外メディアも含めて」


「私には国際NGOの知り合いがいます」緒方が言った。「食料主権の問題に取り組んでいる団体です」


計画は固まった。翌朝、山を下り、作戦を実行することにした。


夜、遠野は山荘の外に出た。満天の星が広がっていた。東京では見られない光景だ。


深い森の静けさの中で、彼は考えた。すべてはいつから間違っていたのか。日本という国はどこで道を誤ったのか。


そして最も重要な問いー「日本は本当に滅びるのか?」


彼は自分自身に答えた。「いや、滅びさせはしない」


---


翌朝、三人は山を下り始めた。長谷川の古い四輪駆動車で、最寄りの町へと向かう。


「計画を確認しよう」遠野は地図を広げた。「最初に小渕町のインターネットカフェを使う。そこからデータをアップロードし、同時に海外の協力者にもメールを送る」


「問題は時間です」緒方が言った。「公開してから、彼らが対応するまでの時間が勝負です」


「ネット上の拡散力を信じるしかない」長谷川はハンドルを握りしめた。


山道を下りる途中、遠野は不意に携帯電話の電波が回復したことに気づいた。メッセージが次々と入ってくる。


その中に、見知らぬ番号からのものがあった。


「コンソーシアムの全容を把握している。接触したい。返信を」


遠野は眉をひそめた。「怪しいメッセージがきている」


他の二人に見せると、緒方が色を失った。


「罠かもしれません」


「もちろんその可能性もある」遠野は考え込んだ。「しかし、もし本当に内部情報を持つ人間なら...」


「危険すぎる」長谷川は反対した。「我々はすでに十分な証拠を持っている」


長い沈黙の後、遠野は決断した。「返信する」


「何を?」


「会う場所と時間を聞く」


メッセージを送ると、すぐに返信があった。


「今日、14時。高尾山ケーブルカー駅前」


遠野は地図を確認した。「高尾山なら、ここからそれほど遠くない」


「行くつもりですか?」緒方が心配そうに尋ねた。


「私だけが行く」遠野は言った。「あなたたちは予定通り、小渕町へ。もし私が18時までに連絡しなければ、全てを公開してくれ」


「無茶です」長谷川が反対した。


「私たちには選択肢がない」遠野は窓の外を見た。「一人でも多くの協力者が必要だ」


結局、彼らは計画を変更した。長谷川と緒方は小渕町へ向かい、遠野一人が高尾山へ向かうことになった。


---


高尾山ケーブルカー駅前。観光客で賑わっていた。人混みの中で、遠野は周囲を警戒しながら待っていた。時計は13時55分を指している。


「遠野さん」


背後から声がかけられた。振り返ると、見覚えのある顔があった。「鹿島...」


財務次官の鹿島総一郎が立っていた。彼は普段のスーツ姿ではなく、登山用の服装だった。


「ついて来てください」彼は言った。「人目につかない場所で話しましょう」


遠野は警戒した。「なぜあなたが?」


「全て説明します」鹿島は静かに言った。「佐伯の死も、村上の死も」


遠野は躊躇った。しかし、真相を知る必要があった。彼は鹿島についていくことにした。


二人はケーブルカーに乗り、高尾山の中腹へと向かった。途中、鹿島は何も話さなかった。


山頂近くの茶屋に着くと、鹿島は人気のない隅のテーブルを選んだ。


「なぜ私に接触した?」遠野はすぐに尋ねた。


「あなたは佐伯のデータを持っている」鹿島は答えた。「そして、食料戦略会議に潜入した。あなたは真実を知っている」


「あなたこそ、真実を知っているはずだ」遠野は冷静に言った。「あなたがコンソーシアムの中心人物なのだから」


鹿島は苦笑した。「それが村上の解釈ですか」


「違うのか?」


「私はコンソーシアムの一員ではありません」鹿島はカップを見つめた。「私は...二重スパイです」


遠野は眉をひそめた。「何のことだ?」


「私は表向き、コンソーシアムに協力しているように見せかけていた」鹿島は声を落とした。「実際は、彼らの計画を内部から暴くために」


「佐伯と同じように?」


「いいえ、佐伯とは違います」鹿島は顔を上げた。「彼は改革を試みましたが、正面からの挑戦でした。私は別の道を選びました」


「なぜそんなことを信じられる?」


「これを見てください」


鹿島はスマートフォンを取り出し、録音を再生した。それは彼とスターリングとの会話だった。鹿島は巧みに情報を引き出し、スターリングは本音を漏らしていた。「日本の主権などどうでもいい。重要なのは資源と人材だ」


「これが、村上議員のいう『協力者』の正体か」遠野は理解し始めた。


「そうです」鹿島は頷いた。「村上さんは私と接触していました。彼も二重スパイだと知っていた数少ない人間の一人です」


「では、彼の死は...」


「彼らの仕業です」鹿島の目に怒りが浮かんだ。「村上さんは警戒が足りなかった。彼はコンソーシアムの本気を理解していなかった」


「あなたはどうして生き延びている?」


「私は慎重だった」鹿島は答えた。「彼らを刺激せず、内部にとどまりながら情報を集めてきた。しかし、もう時間がない」


「最終計画は何なんだ?」


「日本の実質的解体です」鹿島は重々しく言った。「彼らは『効率的な再編』と呼んでいますが、実態は国家主権の解体です。その第一段階が食料支配。国民の生存基盤を握ることで、抵抗を封じ込めるのです」


「阻止できるか?」


「できます」鹿島は決然と言った。「しかし、通常の政治的手段ではもはや無理です。我々は別の方法を取らねばなりません」


「どんな方法だ?」


「『静かなる反乱』です」鹿島の目が輝いた。「国民に真実を伝え、草の根から抵抗を組織する。外国のメディアやNGOを味方につける。そして、彼らのシステムを内部から崩していく」


遠野は考え込んだ。鹿島の言葉は信じるべきか。彼は本当に味方なのか、それとも巧妙な罠なのか。


「信じてほしいとは言いません」鹿島はあたかも遠野の心を読むように言った。「ただ、これを見てください」


彼は別のファイルを開いた。それは「日本復興プロジェクト」と題されたものだった。コンソーシアムの計画とは正反対の、日本の主権と資源を守るための詳細な戦略が記されていた。


「これが私の真の目的です」鹿島は言った。「そして、あなたの助けが必要です」


遠野はようやく決断した。「協力しよう」


二人は計画を立て始めた。まず、コンソーシアムの実体と計画を、最も効果的な形で公開する方法。次に、国民の抵抗を組織する戦略。そして、国際社会の支援を獲得する手段。


「一つ警告があります」鹿島は真剣な表情で言った。「コンソーシアムは必死になるでしょう。彼らは何でもします。村上さんのように」


「覚悟はできている」


「最後にもう一つ」鹿島は声を落とした。「信頼できる人間は少ないです。あなたの仲間も危険かもしれない」


「どういう意味だ?」


「内部に協力者がいる可能性があります」


遠野は緊張した。「緒方さんと長谷川さんのことか?」


「わかりません」鹿島は首を振った。「ただ警戒するように言っているだけです」


二人は高尾山を下り、別々の道を行くことにした。遠野は緊急の連絡手段を受け取り、明日、東京で再会する約束をした。


彼は小渕町へ向かう途中、緒方に連絡を取った。


「無事でした。緒方さんと長谷川さんは?」


「小渕町に着きました」緒方の声に安堵があった。「どうでしたか?」


「後で説明する」遠野は言った。「今は用心してくれ」


通話を終えると、遠野は窓の外を見た。日本の山々が夕陽に染まっていた。美しい光景だが、その下に潜む闇を、彼は今や知っていた。


「日本は滅びない」彼は決意を新たにした。「深層の闇を照らし出し、国を取り戻す」


車は山間の道を進んでいった。戦いの第二段階が、今始まろうとしていた。

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