第一部「表層の亀裂」
蝉の声が遠のき始めた八月の終わり、遠野は久しぶりに帰国した。成田空港の到着ロビーは、以前より人が少なく感じられた。出迎える人の姿もまばらで、ほとんどが外国人観光客だった。
「日本へようこそ」
自動翻訳機を内蔵した案内ロボットが、英語と中国語と韓国語で繰り返し告げている。遠野はその声を背にして、黙って入国審査の列に並んだ。パスポートコントロールは、ほとんど無人化されていた。官僚機構の末端から効率化の名のもとに人が消えていく。それは七年前、彼が内閣府を去った頃から加速していた変化だった。
遠野圭介、四十二歳。元内閣府参事官。現在は国際機関のコンサルタントとして、主にアジア諸国の行政改革に携わっていた。きっかけは上司との確執と、それに続く左遷だった。表向きは「グローバル人材育成の一環」という触れ込みだったが、実質的には飼い殺しだった。しかし彼はその環境をむしろ利用した。日本を外から見る視点を得たのだ。
リニアモーターカーに乗り、都心へ向かう。窓の外には、一見すると繁栄を続ける日本の姿があった。高層ビル群は増え、街並みは以前より洗練されている。しかし、よく見ると微妙な違和感がある。人の流れが少なく、店舗の閉鎖を示す「FOR RENT」の看板が目立つ。公園では子供の姿が希少な光景となり、代わりに高齢者が時間を持て余すように座っていた。
携帯端末を開くと、ニュースフィードが自動的に更新される。
「内閣支持率、過去最低の15%を記録」
「外国人労働者受け入れ拡大法案、与党内でも反対強まる」
「食料自給率30%割れ、米価高騰で庶民の食卓直撃」
「SNS匿名投稿規制法案、再び廃案に」
どれも以前から続く問題の延長線上にあった。しかし、それらが複合的に作用することで生まれる社会の歪みは、確実に限界点に近づいている。それを肌で感じられるほど、彼は日本から離れていたのだろう。
車内アナウンスが行き先を告げる。「次は、新宿、新宿です」
人工知能が生成した女性の声は、かつての車掌の声より完璧で、どこか無機質だった。
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「よく来てくれた」
会議室で彼を待っていたのは、内閣府事務次官の佐伯だった。かつての上司は、さらに白髪が増え、頬はこけていた。しかし目の鋭さは健在だった。
「海外での評判を聞くと、なかなかやっているようだな」
「お恥ずかしい限りです」
形式的な挨拶を交わした後、佐伯は部屋の監視カメラを一瞥し、小さな装置を取り出した。電子妨害装置だ。作動すると、微かなノイズが室内に充満した。
「これでいい。二十分は持つ」
佐伯の表情が変わる。公人の仮面が外れ、疲労と焦燥が露わになった。
「正直に言う。状況は予想以上に悪い。表向きは『持続可能な緩やかな縮小社会』を標榜しているが、実際は制御不能な崩壊が始まっている」
遠野は黙って聞いていた。
「少子化は加速の一途だ。移民政策も場当たり的で、社会統合の視点が欠けている。食料安全保障は絵空事と化し、米すら投機対象になった。官僚機構は利権に絡め取られ、政治家は次の選挙しか見ていない」
「それは私が辞める前から変わっていないことです」
「違う」佐伯は声を押し殺した。「質的な変化が起きている。崩壊の臨界点を超えつつあるんだ」
佐伯はタブレットを取り出し、いくつかのグラフを示した。人口動態、財政収支、食料輸入依存度、社会保障費の推移。どれも右肩上がり、もしくは右肩下がりで、近い将来に持続不可能な点に達することを示していた。
「我々の予測では、五年から長くて十年で、現在の社会システムは維持できなくなる。それまでに抜本的な改革をしなければ、日本という国家の枠組みそのものが崩壊する可能性がある」
遠野は眉をひそめた。「なぜ私にそれを告げるのですか?」
「君に戻ってきてほしい。改革チームのリーダーとして」
「冗談でしょう。私は七年前、改革案を出したところで左遷されたのです」
「状況が変わった。危機感を共有する人間が増えた。表立っては言えないが、最高レベルのお墨付きがある」
遠野は窓の外を見た。官庁街の窓からは皇居の緑が見える。変わらない景色。しかし、その中で生きる人々の現実は確実に変化していた。
「考えさせてください」
佐伯は頷いた。「三日後、また会おう。非公式に」
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高層マンションの一室。遠野が海外赴任中も維持していた自宅だ。埃を被った室内に、彼は一人で佇んでいた。壁には数年前に離婚した妻との写真がまだ飾られていた。子供はいない。二人とも仕事が忙しく、「いつかは」と先延ばしにしているうちに、関係が冷め切ってしまったのだ。
日本社会の縮図のような結末だった。
スマートホームシステムを起動すると、七年間停止していた家電が徐々に目覚める。冷蔵庫、照明、空調。すべてがネットワークに接続され、彼の帰還を歓迎するように動き出した。
「ニュースを再生」
壁面ディスプレイが点灯し、最新ニュースが流れ始める。
「今日、国会周辺で『食料主権回復』を訴える大規模デモが発生しました。参加者は約二万人と報告されています」
画面に映し出されるのは、整然と行進する人々の姿。プラカードには「米国籍金融の農地買収を阻止せよ」「種子法の復活を」「食は命、投機の対象ではない」などと書かれていた。
「一方、ネット上では『国民をミスリードする反政府活動』との批判も...」
遠野はチャンネルを変えた。別の番組では、人気コメンテーターが日本の将来について楽観論を述べていた。
「確かに少子化は問題ですが、AIやロボットの発展により、むしろ少ない人口でも持続可能な社会が構築できるのです。危機を煽るのは、既得権益層の危機感の裏返しに過ぎません」
心地よい言葉。それは多くの人が聞きたい言葉だった。しかし遠野には空虚に響く。数字は嘘をつかない。彼は財政や人口統計の専門家ではないが、トレンドが示す未来は明らかだった。
ディスプレイをオフにすると、部屋に沈黙が戻ってきた。その静けさの中で、遠野は改めて感じた。日本は表面上の平穏を維持したまま、内側から確実に崩壊が進行しているのだと。
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「遠野さん、お久しぶりです」
カフェで待っていたのは、かつての部下だった緒方真理子だった。三十代半ばになった彼女は、以前より落ち着いた雰囲気を纏っていた。内閣府を辞め、現在はシンクタンクに勤めている。
「佐伯さんから話は聞きました」と彼女は切り出した。「私も非公式の改革チームに関わっています」
「君まで引き込まれたのか」
「私から志願したんです」彼女は真剣な眼差しで言った。「このまま手をこまねいていられないと思って」
彼女はタブレットを取り出し、いくつかの資料を見せた。それは佐伯が示したものとは別の角度からの分析だった。社会の分断度、信頼指標の低下、若年層の絶望指数。客観的な数字で表されたそれらの指標は、社会の内部崩壊が進行していることを示していた。
「特に危険なのが、これです」
彼女が指差したのは、「社会的同調圧力と匿名攻撃性の相関」というグラフだった。
「表向きは『和』を重んじる社会なのに、匿名空間では容赦ない攻撃が行われる。この乖離が広がっています。しかも、ターゲットはますますランダムになっている」
「デジタルリンチか」
「はい。特定の有名人だけでなく、一般市民も標的になっています。きっかけは些細なことです。人々は『正義の執行者』を演じることで、自分の無力感を紛らわせているようです」
彼女の分析は、遠野が海外で見てきた崩壊国家の前兆と重なった。社会の分断、相互不信、スケープゴートの出現。日本ではそれが独特の形で現れていた。表面的な平穏と匿名空間での暴力性という二重構造だ。
「政府は匿名投稿規制法案を何度も提出していますが、ネット上の猛反発で頓挫しています」と緒方は続けた。「皮肉なことに、反対派は匿名で政府関係者や賛成派を徹底的に叩く。民主的プロセスが機能不全に陥っているんです」
遠野は黙って考え込んだ。
「問題は社会の信頼基盤の喪失だ」と彼は言った。「匿名・実名を問わず、人々が互いを信頼できていない。政府も信用されていない。そして、それには理由がある」
「どういうことですか?」
「政治不信には、政治が不信に値する行動をしてきた歴史がある。官僚不信には、官僚組織の閉鎖性と失敗の隠蔽体質がある。メディア不信には、権力に阿るメディアの姿勢がある」
遠野は窓の外を見た。平日の昼下がり、カフェの周辺には若者の姿が目立つ。おそらく非正規雇用か、働いていない層だろう。彼らがスマートフォンを覗き込む姿に、遠野は言葉にならない感情を覚えた。
「日本は滅びるのでしょうか?」緒方の声が小さくなった。
「それは我々次第だ」遠野は視線をカップに落とした。「しかし、表層の亀裂を見て見ぬふりをしていては、いずれ深層から崩壊する。それだけは確かだ」
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その夜、遠野は久しぶりに秋葉原を訪れた。かつての電気街は、さらに様変わりしていた。外国人観光客向けの店が増え、一方で老舗の電気店は姿を消していた。
人の流れに身を任せながら、彼は考えていた。佐伯の提案を受けるべきか。表舞台に戻り、改革に挑むべきか。それとも、このまま国際機関の仕事に戻るべきか。
雑踏の中、彼は違和感を覚えた。周囲の若者たちが一斉にスマートフォンを見て、何かに反応している。
「また始まったよ」
「誰だ今回は」
「政治家の息子らしいぞ」
「証拠画像ある?」
好奇心に負け、遠野も自分のスマートフォンを開いた。トレンドに上がっているハッシュタグを見て、彼は息を呑んだ。
「#佐伯次官長男不正融資疑惑」
関連投稿を開くと、佐伯の息子とされる人物の写真と、何らかの内部文書のスクリーンショットが拡散されていた。真偽は不明だが、拡散速度は恐ろしいほど速い。
遠野は急いで佐伯に電話をかけた。応答はない。再度かけても同じだ。
悪い予感がして、彼はタクシーを拾い、佐伯の自宅に向かった。マンションに着くと、すでに数台の報道車両が停まっていた。記者たちがエントランスで待機している。
遠野は記者に気づかれないよう裏口から侵入した。セキュリティシステムをかいくぐり、非常階段で佐伯の階まで上がる。
廊下で彼を待っていたのは、警察官と救急隊員だった。
「関係者ですか?」警官が尋ねる。
遠野が答える前に、アパートのドアが開き、担架が運び出された。その上には白い布で覆われた人影があった。
彼は凍りついた。
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翌朝のニュース。
「内閣府事務次官・佐伯俊一氏(58)が自宅で死亡しているのが発見されました。警察は自殺とみて調査しています。佐伯氏の息子をめぐっては昨日からSNS上で不正融資疑惑が拡散していましたが、財務省は関連する事実はないとの声明を発表しています」
アナウンサーの声は冷静だった。しかし、画面に映し出される佐伯の写真と、その横に小さく表示されるSNSのスクリーンショットの対比に、遠野は言いようのない怒りを覚えた。
スマートフォンが鳴った。緒方からだ。
「遠野さん...」彼女の声は震えていた。「昨日の資料、全部消されました。サーバーから跡形もなく」
「何だって?」
「改革チームの存在自体が否定されています。『そのような非公式組織の存在は確認できない』と」
遠野は唇を噛んだ。すべてが佐伯の死とともに闇に葬られようとしている。そして、それは偶然ではないという直感があった。
「緒方さん、安全な場所にいますか?」
「はい、実家に戻っています。田舎なので...」
「そこにいてください。連絡は暗号化アプリを使います。バックアップはありますか?」
「はい、個人的に保存していたものが」
「それを守ってください。必ず取りに行きます」
通話を終えた遠野は、窓の外を見た。朝の光に照らされた東京の街並み。表面上は何も変わらない日常。しかし確実に、目に見えない亀裂が広がっていた。
彼の携帯が再び鳴った。見知らぬ番号だ。
「遠野です」
「私の身に何かあったら、君に託したものがある」
佐伯の声だった。録音されたメッセージだ。
「新宿駅の南口コインロッカー、7番。暗証番号は君の誕生日だ」
メッセージはそれだけだった。遠野は急いで準備を始めた。何かが動き出したことを、彼は確信していた。表層の亀裂は、今まさに深層へと伸びようとしていた。
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新宿駅南口。朝の通勤ラッシュで、構内は人で溢れていた。遠野はさりげなくコインロッカーに近づいた。7番のロッカーは普通のものに見えた。
暗証番号を入力すると、小さな音とともにロッカーが開いた。中には茶封筒が一つ。
彼はすぐには取り出さず、まず周囲を確認した。監視カメラの位置、不審な人物の有無。国際機関で学んだ警戒習慣が体に染みついていた。
人混みに紛れて駅を出る。カフェに入り、奥の席に座った。周囲に注意を払いながら、彼はようやく封筒を開けた。
中には小型のメモリデバイスと、手書きのメモがあった。
「遠野へ。
これはただの崩壊ではない。誘導されている破壊だ。
証拠はここにある。信頼できる人間だけに見せるように。
ーー佐伯」
メモリデバイスをスマートフォンに接続すると、暗号化されたファイルが現れた。パスワードを求められる。遠野は考え込んだ。
試しに「nihonhokai」(日本崩壊)と入力する。
「パスワードが違います」
次に「managed_collapse」(管理された崩壊)を試した。
画面が変わり、ファイルが開いた。
そこには膨大なデータと文書があった。国内外の金融機関、投資ファンド、政界、官界の人間を結ぶネットワーク図。土地取引の記録。食料インフラの所有権移転の履歴。そして最も衝撃的だったのは、「日本社会解体計画」と題された文書だった。
それは、日本という国家を内側から解体し、その資産と人材を「効率的に再配分」するための長期計画だった。実行者は国内外の様々な勢力。政府高官、財界人、外国資本が複雑に絡み合っていた。
最終目標は明確だった。
「国家主権の実質的解体と、グローバル資本による日本列島の最適運用」
遠野は震える手でコーヒーカップを掴んだ。これが真実なら、彼らが直面しているのは単なる社会的衰退ではない。計画的な国家解体だ。
彼はデバイスを取り外し、別の暗号化アプリで緒方に連絡した。
「資料を受け取った。信じられない内容だ。今夜、安全な場所で会おう」
返信を待っている間、遠野は窓の外を見た。平凡な日常を送る人々。彼らは知らない。表面上の亀裂の下に、どれほど深い闇が広がっているかを。
佐伯の最後の言葉が蘇る。
「これはただの崩壊ではない。誘導されている破壊だ」
遠野は決意した。逃げるわけにはいかない。彼は戦うしかなかった。日本という国が、静かに、そして確実に滅びていくのを阻止するために。
しかし、どこから手をつければいいのか。敵は見えない。その実体は、複雑な利権と思惑の網の目に隠されている。
彼のスマートフォンが震えた。緒方からの返信だ。
「気をつけて。あなたが次の標的になるかもしれません」
遠野は深く息を吸い込んだ。表層の亀裂は、いまや彼の足元にまで及んでいた。