~僕とじいちゃん(前編)~
カブトムシに別れを告げたあと、僕はかすかに話し声のするリビングへ移動した。
じいちゃんは電動コーヒーミルにコーヒー豆を入れていたところだった。
「おはよう」
「お~起きたか」
「いやいや、僕が一番早起きだったんだよ」
「なんでもいいから、朝ご飯を食べちゃいなさい。片付けができないわ」
そういいながら母さんは、食卓に朝食を並べてくれた。
食卓には、海苔に漬物、焼鮭、ミニトマトが入ったサラダ、卵焼き、
お味噌汁、ホッカホカの白御飯、そして琥珀色の麦茶…
田舎の風景は色があまりないといったけど、僕の食卓はとってもカラフルだ。
「いただきます!」
静かに食べだした。
じいちゃんはコーヒーミルからコーヒー豆を取り出した。
その瞬間、コーヒー独特の匂いがリビングふわ~っと広がっていく…。
「あら、いい香り…」
「みんなが飲めるように、多めに作っとくか…。電動は楽でいいわい」
「助かります」
母さんは嬉しそうに答えた。
その横で僕はコーヒーの匂いを嗅ぎながら、白ご飯から手を付ける。
(コーヒーって、そんなにいい匂いかなぁ…?)
挽いた粉をドリッパーに移し替え、粉の中心からゆっくりとお湯を注いでいく…。
ししおどしの水みたいだ…。
挽いたマメ全体がお湯に濡れる。そしてケトルをテーブルに置いた。
「しばし、待つ」
その間もコーヒーの香ばしい匂いがリビング中に広がってゆく。
「ときによ…今日は商店街で、話し合いをしてくる」
「車で行くの?」
「歩いてな。免許は返納したからのう。あと車はなにかあったときのために、置いとった方がいいじゃろ。なぁに、歩くのもたまには健康にいいもんじゃ。レイジも行くか?」
「お供します! 殿!」
僕は時代劇のノリでこたえた。じいちゃんは笑っていたが、母は心配そうに言う。
「気を付けてくださいよ、お義父さん。最近は暑さで病院に運ばれる人が多いですからね。なにかあったら連絡ください。車で迎えに行きますから」
「オッケ~。…よし、そろそろじゃな」
じいちゃんは軽い口調で返事をしながら、ケトルで残りのお湯を注いでゆく。
「ふぅ…いい感じだ」
出来上がったコーヒーを、じいちゃんは砂糖もミルクも入れずに飲む。
「苦くないの?」
「おこちゃまには わかるまい」
「ちぇっ…」
コーヒーをすすりながら、じいちゃんは今日のスケジュールをみんなに話す。
僕はじいちゃんと、商店街に遊びに行く予定だ。
妹はお留守番。虫はイヤだ、日焼けはイヤだ、と理由を挙げればキリがない。
コーヒーを飲み終えたじいちゃんはリビングをはなれて、着替えてきた。
青のアロハシャツにクリーム色の長ズボン。とても涼しげな格好をしている。
対して僕は、市松模様のシャツに青ジーパン。
スタンドミラーの前で決めポーズをとった。
「…ヨシ!」
「いや、ポーズも服もそんなに決まってないよ?」
(み、見られていたのか…)
恥ずかしい気持ちを胸に僕は玄関へ向かう。
「準備はできたか? よし、行くぞ。」
じいちゃんは日差し対策にカンカン帽を手に取ってかぶる。
さらに紺色ボディーバックを肩から腰に掛ける。
僕のリュックサックには方位磁石、携帯電話、折りたたみ傘、固形非常食、
母が入れてくれたスポーツドリンク、ハンドタオルがある。
「いらないものばっかりだと思うけど…まあ、好きになさい」
母は呆れたように言う。
「虫よけスプレーもしたし、水筒もある。サバイバルブックも持ったし大丈夫」
「最後のはいらないと思うよ? なにかあったら携帯電話を使えばいいじゃない」
妹のスキのない正論に僕はぐうの音も出なかった。
「服もポーズもリュックの中身も…何から何までナンセンスなお兄ちゃん」
「使わないけど手元にないと落ち着かないんだろ」
父は妹に諭すような口調で言う。
「行ってきます」
玄関のドアを開けると、夏の日差しと大きな入道雲が目に入ってきた。
ミーーン……ミーーーン……
耳にはセミの鳴き声が、体には熱い風がまとわりつく…。
「夕方までには帰る」
「いってらっしゃ~い」
見送るみんなを背に、僕とじいちゃんは歩き出す。
大人の足で40分だから、子どもの僕と一緒だと、片道1時間くらいだろうとじいちゃんは言う。
僕はちょっとしたピクニック気分で楽しみにしていた。
口うるさいシズカや母さんはいないし…。
なにかあれば、じいちゃんがなんとかしてくれるという他力本願の考えだった。
ほどなくして僕たちは竹林の中を歩いていく。
上を見ると白い光の中に緑と黄緑色の竹の葉が、静かに揺れているのが見える。
風も少し吹いている。強さは扇風機の微弱くらい。
それでも直射日光を避けて歩くだけで、微弱の風は心地よかった。
「あ~あ、シズカも来ればよかったのに…」
「まあ、女の子は来たがらんよ。しずは田舎道より舗装された都会の道を歩きたがるからのう」
「ノリの悪い妹だよ…。僕は弟が欲しかったなぁ~」
「弟が欲しいのか? じゃあ、夜は早く寝なさい」
「?」
「夫婦水入らずの時間を作ってあげることじゃ」
僕はじいちゃんが何を言っているのかわからなかった。
しばらく一緒に歩いて分かったことがある。じいちゃんは歩くのが早い。
平地ならともかく、坂道や山道でもあまりスピードを落とさず歩いている。
大人の足で30分といったが、それはじいちゃんの速さで、という意味である。
一般の人なら45分ほどかかると思う。子どもの僕はもっとかかる。
「ホントは道路を突っ切った方が近道なんだが…。
このあたりは明日の夏祭りでも使うからな。
一応見ておかんとな。すまん、少し回り道するぞ」
「うん、いいよ」
「こっちは日陰の中を歩けるから、いくらか涼しかろうよ」
「なるほど…」
じいちゃんの判断は正しいと思った。
10分ほど…竹林の中をじいちゃんと歩いていく。
すると今度は石づくりの階段が見えてきた。
ざっと30段はある。僕は、大きく息を吸い込んで階段を上り始める。
「よぉ~し、いくぞぉ!」
僕は脇目も振らず走り出した。
しかし、すぐに足が思うように動かなくなり、ペースダウンしてしまった。
情けないことに30段の階段を一気に走り切ることができず立ち止まってしまった
(はぁ…はぁ…)
「なんと…竜頭蛇尾とはまさにこのことじゃ」
じいちゃんは、最初からペースを変えずに上り、僕の横を通り過ぎた。
「お先に~」
じいちゃんは僕に手首を軽く振りながら横目にスタスタと階段を上っていく。
「ハァハァ…じいちゃんすごいや…」
階段を上り切ったじいちゃんは水分補給をしながら少し遠くを見ていた。
「……異常なさそうじゃの……」
ほどなくして先に行ってしまった。
僕もリュックから水筒を取り出して水分補給をした。
目を閉じてみる…するといろんな音が聞こえてくる…。
最初に聞こえてきたのはセミの鳴き声だった…。
しかし意識して聴くと、他にも聴こえてくる。
川のせせらぎ…そよかぜ…葉と葉が重なり合うことで奏でるさわさわという音…
今さらだけど自然とはいろんなもので成り立っているということに気づく。
不思議なことに目を閉じるまえよりもいくらか心が楽になったように感じた。
水筒をしまい、残りの階段をゆっくり登った。
石造りの階段をやっとの思いで登ると、そこには想像した通りの神社があった。
水鏡神社という名前で、一応、歴史があるようで古色蒼然としているが、詳しいことはわからない。
「……ん?」
境内には、じいちゃんと見知らぬ2人の男女が立っていた。