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寒い…
恭子は洗面台に映った自分の顔をぼうっと眺める。目の下にはくまがくっきりとつき、明るい蛍光灯の下で青白い顔が浮いている。
セントラルヒーティングがない日本の家は廊下も洗面所も寒い。朝はお湯が出るのも時間がかかる。恭子はあかぎれができた手をこすりながら、水がお湯になるのを待った。
このくまはコンシーラーで隠れるかな。たしか買ったばかりの新しいやつがあったはず。
恭子は洗面台の鏡の戸を開けて、中からメイク用品を探る。
あったー!新しいのをいきなり試すのも賭けだけど、私には時間がない。朝は戦争なのですよ。
コンシーラーを取って戸棚を閉めようとすると、恭子は戸を持った手に振動を感じた。
うん?
ザー
ザー
ザー…
あれ?ケータイのアラームかな。切ったはずだけど。
恭子は戸棚を閉めて、携帯を手に取ろうと下を向いた。
『……ちゃん』
『こちゃん』
『恭子ちゃん』
鏡の方から音がする。恭子はとっさに顔を上げた。
…え。美女だ。美女がいる。てか美少女?てか私?いやいやいや。
鏡には、鮮やかな青色の髪の少女が映っていた。
…金髪やブルネットは見慣れてる。ピンクもオレンジの髪も見たことはある。けどこの真っ青な髪はなんだ。ついでに真っ青な目はなんだ。コスプレ?しかもパンク?
恭子がパンクだと思ったのは、少女の髪型がチグハグだったからだ。左側の髪の毛は長く垂れ下がっているが、右側は耳の辺りでバッサリ切られている。
少女はにこにこしながら手を振り、
「いやあね、聞こえないのかしら。ちょっとー!接続悪いわよ!」
といいながら、鏡を叩く。それに合わせて少女の顔がゆらゆらと揺れる。
…疲れてる。私は疲れてるんだわ。
恭子はとっさに壁に手をつくと、左手でおでこを押さえて目を閉じた。
『恭子ちゃん!』
空気がびりっとするほど大きな声が聞こえた。
恭子はびっくりして目を開けると、鏡を凝視した。
『あ、聞こえたわね。恭子ちゃん、久しぶり。元気…じゃなさそうね?顔色悪いわよ。お肌も荒れてるし。お肉もっと食べなさい。野菜もよ。恭子ちゃんは昔からピーマン食べないんだから。朝ごはんもちゃんとに食べるのよ。』
え、喋ってる。なにこれ、CG?どっきり?怪しい。怪しすぎる。
でもなんだろう、この人どこかで見たことがあるような。目?目かな。それに『恭子ちゃん』のって呼ぶこの独特のイントネーション。『きょっこちゃん』になってる。この呼び方をするのは一人だけ…
少女はあいかわらずにこにことしながら手を振っている。
思わず恭子も手を振り返す。
この目…この目…
懐かしいこの目。色は変わってるけど、優しさが滲み出てるこの目は…
「…おばあちゃん?」
『ふふ。気づいた?そうよ。おばあちゃんです。』
少女はにこりと笑う。
「え、でもおばあちゃんは…違う、違うよ、だっておばあちゃんは…」
息が苦しくなる。言葉にすることもできない。
「やめてよ、だっておばあちゃんはちょっと前に…」
恭子の目に涙が溜まってくる。
『恭子ちゃん。おばあちゃんは生まれ変わったのよ。聖女になったんだから。見える?この服。聖女っぽいでしょう〜。」
少女は自分の服を引っ張って恭子に見せる。
「うそ。ほんとに?おばあちゃん?おばあちゃん!おばあちゃん!」
恭子は鏡に手を触れる。冷たい鏡が手に当たった。
会いたかった。会いたかったの。最期にありがとうと言いたかった。お別れに立ち会いたかった。
「おばあちゃん、ごっごめ、ごめんなさい。私、最期っ行けなくて。ごめんなさい。ごめんなさい。」
恭子はしゃくり上げながら腕で涙を拭いた。