バンヤン山へ
雲の民の窮地を知ったハルは、一刻も早くカイラの元へ駆けつけたかったが、一人前の冒険者とならないうちは勝手によその街へ移ることはできない。
一定以上の実力と、共同体に役に立つことを証明して初めて、街への出入りが自由になるのだ。
なにより、雲の民が連れて行かれた島までは海を越えなければ辿り着けない。
現状では、船に乗ることも難しかった。
今、感情だけで先走ったところで、次の町へ入るために毎回安くない料金を取られ、すぐに行き詰まることとなるのは目に見えている。
そのためハルは、まず都市のそばのダンジョンを攻略することにした。
先に都市に来ていた兄の下で経験を積みながら、休日にはダンジョンに潜る。
初心者向けとはいえ、ダンジョンはダンジョンだ。
絶対に無理をしない事。
兄達にそう言い含められて、それでも時々は無理をして失敗をしながら、ハルはなんとか初心者ダンジョンをクリアした。
冒険者になって3ヶ月が過ぎていた。
初心者ダンジョンをクリアした冒険者は、晴れて一人前と認められる。
これでようやく各都市や町への出入りにお金がかからない。
特にハルのクリアしたダンジョンは初心者向けの中でも深く、難易度が高いと評判だったため、ここを1人でクリアしたとなればギルドの信頼も厚くなる。
ここをクリアできたなら、1人で旅に出ても構わないというのがハルの兄の言だった。
ダンジョンクリアの次の日、ハルは兄達に別れを告げて、朝早くに都市を出発した。
海沿いの街までは乗合馬車で行くとなれば3ヶ月はかかる。
途中の街をいくつも経由して、乗客に合わせてゆっくりと旅するのだ。
この辺りで暮らす人間は海沿いまで出かけることなく一生を過ごす者もいる。
往復を考えれば、気楽に旅行に行ける距離ではなかった。
ハルは街を経由せず、1人でまっすぐに海へと向かうことにした。
野営を繰り返し、夜明けと共に歩き出し、ただひたすらにまっすぐ海へと。
そのおかげか、1ヶ月もかからずハルは海沿いの街へとたどり着く事ができた。
しかしそこでハルを待っていたのは、海の民が国内で戦を始めたという話だった。
海の民が後継者争いを始め、彼らの国へと向かう船がなくなってしまった。
「後継者が決まるまではどこも船は出さないぜ」
そう言われて断られてしまう。
それでも、ハルは諦めなかった。
何件も何件も、商人や船頭を回り、そして断られ続けた。
大きな契約をしている大船団を持つような商人ならば別だが、今は普通の船は行き来していないのだという。
そういった商船ですら、本国へは向かわず、近くの島で取引を行なっているらしく、直接彼らの元へ向かうことはないのだとか。
ハルは肩を落とし、海に面した食堂の、通りに並んだテーブルに腰を下ろした。
メニューは魚料理ばかりで、肉が食いたいとハルは内心でため息をついた。
そういえば、とカイラは果物が好きだったことを思い出す。
今頃、雲の民がどうしているか分からない。
カイラがどうしているのかも。
元気でいるのか、無事でいるのか。それすらも分からない。
ずっと一緒にいるのだと思っていた。
当たり前に一緒に暮らして、子供をつくって、年をとっていくのだと。
こんな理不尽があるとは思ってもみなかった。
だが考えればけして不思議なことではないのだ。
美しく異能の才のある雲の民は、常に強者によって踏みにじられ、権力者によって好きなように蹂躙された。
その運命から逃れるため、彼らは空で暮らすのだ。
人とは関わりを減らして生きていくために。
自由のために。
忘れるのか。
諦め、忘れて生きていくのか。
村へ戻れば、静かに生きていくことはできるだろう。
村の娘を妻にし、ささやかな幸せを手に入れて暮らしていける。
本当に?
本当にそうなのだろうか。
権力者が望めばもろく崩れ去り、強者の気まぐれで簡単に壊れる。
ハル達、弱者の幸せなどそんなものだ。
天候ひとつに左右され、病が流行れば、戦が起きれば打ちのめされる。
だが、いつもそこから立ち上がってきた。
ならば、ここで立ち上がることだってきっと不可能ではない。
それにハルは、どうしてもカイラを諦められなかった。
カイラに会いたい。
カイラがどうしているのか確かめたかった。
彼女がいつも笑っていられるように。幸せに暮らせるように。
そのために力を尽くしたい。
彼はずっとそう考えていた。
そういう自分でありたいと、そう願っていた。
ハルは腰を下ろしていた食堂の椅子から立ち上がった。
海を渡る船はない。
ならば、行く先はひとつ。
荷を肩に担ぐと、ハルは歩き出した。
向かう先は大森林の向こう、天高くそびえるバンヤン山である。