第八話 悪人を一掃する好機到来なのか
武田晴信の治水工事で、最も重要な部分が完了する。
京都にいる天皇すら驚かせた暴れ川・御勅使川は、川の流れそのものが変わっていた。
竜王の高岩という崖がある場所へと向かって流れ、そこで釜無川に合流したのである。
それからしばらく経ち、大雨の季節となった。
数日間大雨が続いたために御勅使川も釜無川も増水し始める。
特に御勅使川を流れる水の勢いは激しく、たちまち鉄砲水となって釜無川へと襲い掛かった。
「やはり……
あの川には、神が宿っていたのか。
人ごときが敵うような相手ではない。
ああ、全て飲み込まれてしまう……
これは神の祟りじゃ!
何もかもお終いじゃ!」
避難先の高台から見ていた人々が見当違いな悲鳴を上げ始めたとき。
ついに、御勅使川の水が釜無川を乗り越えた。
誰もが川の氾濫を覚悟した。
ところが!
新しい堤防はビクともしない。
神が宿っていると言う暴れ川でさえ、新しい堤防にはかすり傷一つ与えられなかったのだ!
暴れ川を相手に立ち塞がり、微動だにしない新しい堤防を見て……
人々は歓喜の声を上げた。
「何と見事な!
あの暴れ川を止めてしまうとは!
これは『奇跡』なのか?」
そして人々の熱い視線は、この偉業を成し遂げた晴信へと向かう。
「晴信様こそ、この甲斐国の……
我らの真の支配者じゃ!」
大衆は熱狂し、晴信に手を合わせて拝む者すら現れた。
◇
甲斐国のとある場所に、御勅使川の流れを変える先の土地・六品にいた民が住んでいる。
六品の土地は治水工事によって新しい御勅使川の底に沈んだだめ……
彼らは晴信が代わりに与えた土地に引っ越したが、毎日のように遊び暮らしていた。
晴信の弱みに付け込んで保障の額を吊り上げ、莫大なお金を掠め取っていたからである。
およそ1年ほど前。
ある者が、六品の土地にやってきた。
その者はこう尋ねた。
「わずかな銭[お金]で立ち退きに応じたと聞いたが、真でござるか?」
一人の男が返答する。
「真でござるよ……
釜無川流域に住む者たちのために、なぜ我らがわずかな銭[お金]で立ち退かねばならんのか……
納得はしていないが」
「それならば……
立ち退きを拒否されては如何?」
「拒否?
そんなことをすれば処罰されよう」
「いや。
立ち退きを拒否しても、処罰されることはない」
これには周囲の者たちも驚いた。
「処罰されない?
それは真か?」
「治水工事で犠牲になるのが、おぬしたちだけではないからじゃ。
他にも『大勢』いる」
「他にも大勢?
晴信様は何も仰っていなかったが……」
「都合の良い話だけしか教えなかったのだろう」
「我らを欺くとは、卑怯な!
それで……
他の者たちはどれくらいの銭[お金]をもらっている?」
「おぬしたちより、もっと多く」
「何っ!?
我らだけ損しているではないか!」
「いい儲け話がある。
一転して、立ち退きを拒否されよ。
もっと多くの銭[お金]を要求なさるが良い。
わしは……
他の者たちと連携して、一斉に拒否するように仕向けさせよう」
「連携して一斉に拒否すれば……
晴信も全員を処罰できないと?」
「そういうことよ」
「それで。
どれくらいの銭[お金]を要求できるのじゃ?」
「これくらいは要求できよう。
どうじゃ?」
周囲の者たちの目の色が変わる。
元々から、強欲な者たちだったのだろうか。
「そんなにも!?
これなら、一生遊んで暮らせるぞ!」
「ただし。
一つだけ条件がある。
手数料として、わしが半分を貰い受けたい。
危ない橋を渡らねばならぬゆえな」
「半分も!?
半分取られても十分に遊べるが……
それよりも、必ず銭[お金]を取れると約束できるのか?」
「これを見られよ。
さる御方が、約束してくれている」
差し出されたのは……
武田家の有力な家臣からの手紙であった。
「内容はこうじゃ。
『この治水工事は、晴信が勝手にやり出したこと。
家臣たちは誰も賛成などしていない。
銭[お金]をふっかけよ。
味方のいない晴信一人に、一体何ができるというのか』
とな」
「なるほど……」
「それで、どうされる?
銭[お金]を得る『機会』をみすみす逃すおつもりか?」
「そんな機会を逃すはずがなかろう!
我らはやるぞ!
何をやればいい?」
六品の土地にいた民のほとんどは、こうして誘導された。
◇
「些細な問題を『強調』することで、全てが悪いように『錯覚』させ、人間を敵対行動へ『誘導』する」
これはプロパガンダの常套手段である。
プロパガンダに操られた人々は皆、自分が操られたなどとは夢にも思っていない。
自分の自由意思で決めたと信じ込んでいる。
これは当然のことだ。
相手にプロパガンダだと気付かせないことが、一流のプロパガンダなのだから。
プロパガンダを舐めてはいけない。
今この瞬間もあなたの身近に存在し、一見すると関係ないメディアやインフルエンサーを利用し、巧みにあなたを操ろうとしている。
◇
大衆が晴信に熱狂してから、数日後。
六品の土地にいた民が住む武田家の直轄地で大量虐殺事件が起こった。
金目の物が多く奪われ、大勢の人が斬殺された。
駆け付けた武田家の役人たちも、あまりの凄惨な光景に吐く者すらいたという。
役人たちの捜査で犯人はすぐに見付かった。
事件が起こった場所から比較的近い山を拠点とする行商人集団である。
潜伏していた忍びが、奪われた金目の物を見付けたからだ。
これで証拠は揃った。
被害があった場所に、高札が掲げられた。
犯人とその証拠が書かれていた。
◇
その夜。
「弟よ。
今夜にも1,000人の軍勢を率い、犯人どもを一人残らず始末して欲しい」
晴信である。
武田家で随一の知恵者である信繁に、嘘など通じるわけがない。
「これは『自作自演』でござろう」
「そなたに嘘は通じぬか」
「六品の民と、それを唆した行商人集団への恨み……
それほどまでに深かったのですか?」
兄は真顔で答える。
「わしは純粋に国を、民を憂いていた。
このわしから……
奴らは銭[お金]を掠め取ったのじゃ!
『正義』が何たるかを世に示さねばならん」
「兄上!
純粋であれば、正義があれば、大勢の人を虐殺しても構わないと申されるのか!」
「六品の民を唆した行商人集団の『評判』について……
そなたも存じているはず」
「……」
「奴らは評判が悪いことで有名であった。
人に嘘の儲け話を持ち掛けて騙し、銭[お金]を巻き上げていた。
心が弱いと分かっていながら違法な賭博[ギャンブル]を勧めていた。
借金のカタに犯罪行為をさせ、身体まで売らせていたとか。
己の手を汚さず、人の弱みに付け込んで悪事を働かせるとは……
真の『悪人』とはまさに、あ奴らのことであろう!」
「……」
「それでも。
裁けなかった!
集団の拠点が武田家の直轄地ではない場所にあったからのう……
法の網を掻い潜って、やりたい放題であった。
我らが手をこまねいている間も、被害は確実に広がっていた!」
「……」
「確かに。
殺人の罪まで着せることは、『悪』以外の何物でもない」
「……」
「だが!
このまま何もしなければ、どうなる?
被害者は増える一方だぞ!
今こそ、真の『悪人』を一掃する好機が到来しているのじゃ!」
◇
信繁は迷っていた。
兄の言う通り、連中を一人残らず始末してしまえば……
見せしめとして、この種の悪徳行為への大きな『抑止力』となる。
悪を絶対に許さない姿勢を明確にでき、民の支持も高まるに違いない。
計算すればするほど『利点』の多いやり方だ。
それでも、信繁の良心は激しく抵抗していた。
自然と言葉に出てしまった。
「あんなに大勢の人を虐殺するなど……
人として間違っているのでは?」
弟の抵抗は、兄の想定内だったようだ。
「そなたはこう申していたではないか。
『絶対的な権力者を目指す以上……
それを阻もうとする大勢の者の血が流れるだろう』
と」
◇
「人を騙し、銭[お金]を巻き上げる、あの悪徳な集団が……
ついに凶悪化したか。
一人残らず成敗してしまえ!」
高札を読んだ者たちは皆、こう言った。
「真に犯人なのか?」
こう言った者は誰一人としていなかった。
その夜。
討伐が決行された。
「悪逆非道の輩に、天の裁きを下すときが来た。
一人残らず成敗せよ。
これは正義の戦ぞ!
全軍、出撃!」
信繁の率いる1,000人の精鋭部隊が差し向けられた。
誰一人といえども逃げ出せなかった。
翌朝。
討伐の完了を知った人々は、むしろ晴信の英断を褒め称えた。
自分の領地に勝手に立ち入られた領主も、これを見て沈黙を余儀なくされた。
【次話予告 第九話 国を一つに】
一連の出来事は思わぬ副産物を生みます。
保障を理由に銭[お金]を掠め取った者たちが、恐怖に震え上がりました。
見せしめの効果は絶大であり、国を『一つに』していくのです。