第五十九話 十字砲火の恐るべき威力
1572年12月22日。
遠江国の三方ヶ原［現在の静岡県浜松市北区］で武田軍3万人と徳川・織田連合軍1万1千人が対峙する。
武田軍は、大軍が使うべきでははない『魚鱗の陣』で布陣した。
徳川・織田連合軍も、少数の軍が使うべきではない『鶴翼の陣』で布陣した。
武田信玄と徳川家康は……
幼少の頃から兵法をよく学び、一流の兵法家として歴史にその名前を轟かせた人物である。
兵法における基本中の基本である『陣立て』を間違えるような人物ではない。
家康がこう言った通りなのだろうか？
「敵はやはり……
鉄砲の弾丸と火薬が尽きていたのじゃ！
もう突撃という手段しか残っていないのだろう。
これは好機ぞ！
我らは左右に翼を広げるように布陣し、あえて中央を薄くせよ。
中央を薄くすれば、敵の突撃を誘うことができ……
加えて鉄砲隊を左右に広げたことで、突撃して来る敵の側面を狙撃できる。
盾を構えていない側面ならば、敵を確実に撃ち殺せるぞ！」
と。
信玄と家康が、なぜ陣立てを間違えたのか？
これなら辻褄が合うのだが。
◇
兵法によると。
鶴翼の陣は……
左右の翼の部分に強力な軍勢を置く陣形である。
それが敵を包囲したり、敵の側面や背後に回り込んで殲滅するのだ。
徳川・織田連合軍は、右翼に酒井忠次隊と左翼に石川数正隊を配置した。
どちらも徳川軍きっての精鋭部隊であり、経験豊富な兵士が多い。
突撃してくる武田軍の側面を突いて打撃を与えるにはうってつけだろう。
ところが！
武田軍の一部が、まるで別動隊かのように左にどんどん離れていく。
これを見た家康は翻弄され、慌てて右翼の酒井忠次隊に対応を命じてしまう。
これは徳川軍の最強部隊を家康から引き離すための『陽動作戦』であったのだ。
家康はまんまと罠に嵌まってしまった。
「これが陽動作戦だとしたら……？
しまった！
信玄めに、してやられた！
忠次に元の位置へ戻れと伝えよ！
急げっ！」
出撃した忠次も……
しばらくして罠であることに気付いた。
元に戻ろうとしたが、敵とぶつかって乱戦となり身動きが取れなくなる。
もう手遅れであった。
◇
法螺貝が吹き鳴らされた。
低く唸るような音が、周囲の山々に鳴り響く。
「おお、おお、おおっ！」
続いて鬨の声が上がった。
無敵の武田軍の勢いそのままに、周囲の山々に響き渡る。
「ドン、ドン、ドン！」
前衛部隊が一糸乱れず前進を始めた。
まるで地響きのように大地が揺れている。
普通の人間なら、これだけで恐怖に駆られ逃げ出してしまうだろう。
ただし、迎え撃つ徳川・織田連合軍も歴戦の勇士たちばかりである。
全く動揺していない。
「撃ち方始めぇっ！」
怒涛のごとく殺到してくる敵に向かって、鉄砲隊が次々と火を噴いた。
数十秒の間隔で撃ちまくっているために発射音が途切れない。
まるで連射しているかのようだ。
武田軍の前衛部隊は……
竹束という盾を並べて前進している。
傾斜装甲を生かし、正面から飛んでくる弾丸を次々と弾いていった。
一方の徳川・織田連合軍は……
鶴翼の陣によって左右に広がりつつ、Uの字になっている。
突撃して来る敵の、盾を構えていない側面を狙撃して確実に撃ち殺すためだ。
そして。
十字砲火の恐るべき威力を目の当たりにする瞬間が訪れた。
◇
やや右に展開した織田軍鉄砲隊と、やや左に展開した徳川軍鉄砲隊が……
急接近して来た武田軍最前列を側面から狙撃し始める。
「うあっ」
「ぎゃっ」
一瞬で百人以上の人間の悲鳴が上がった。
人間が、まるで将棋倒しのようにバタバタと倒れていく。
「何という十字砲火の威力よ！
あれだけ精強な兵が、こうも簡単に倒されるのか……」
家康は感嘆の声を上げた。
もちろん、倒された兵士の全員が死んだわけではない。
急所に当たらなければ即死はしない。
ほとんどが負傷者だろう。
それでも……
後続は負傷者を助けるどころか、それを乗り越えて猛然と迫ってくる。
「負傷者を見殺しにする気か！」
「倒れても倒れても突っ込んでくるぞ！」
「死ぬのが怖くないのか！？」
「まるで鬼じゃ……」
「防ぎきれん、退くぞ！」
恐るべき威力を誇った十字砲火も……
倒れても倒れても突っ込んでくる武田軍の突撃を止められない。
一気に肉薄され、鉄砲隊は我先にと逃げ出した。
鉄砲隊は射撃の腕こそ鍛えられているが、白兵戦まで鍛えられているわけではない。
逃げ出すのも当然だろう。
その鉄砲隊の後ろには、『長槍隊』が控えていた。
武田軍に向けて一斉に槍が振り下ろされた。
当時の織田軍は、6メートル程もある槍を使っていたらしい。
これだけ長いのは突くためではない。
敵の頭上に振り下ろして、脳震盪を起こさせるためだ。
重量にして1トン［1,000kg］を超えるモノを頭にぶつけられたら……
誰だって無事には済まないだろう。
武田軍の最前列がまたバタバタと倒れた。
しかし、次の列は長槍隊の懐に入り込むことに成功する。
得意の白兵戦に持ち込めた！
そう思った、瞬間である。
◇
「今じゃ！
撃てぇぇぇっ！」
号令に続き、鉄砲隊の凄まじい一斉射撃の音が鳴り響いた！
至近距離で撃たれた武田軍の兵士がまたバタバタと倒れていく。
鉄砲隊は逃げず、長槍隊の後ろで弾を込めていたのだ。
長槍隊の懐に入り込んだ武田軍の兵士に一斉射撃を食らわせて見せたのである。
これを見た家康は思わずほくそ笑むが、すぐに爪を噛み始めた。
「十字砲火のおかげで……
我らは敵の攻勢を何とか凌いでいる。
右翼の酒井忠次隊はまだ戻らんのか？
敵の側面を突く好機が到来しているのに、強力な右翼部隊がおらんと話にならんぞ！」
そもそも家康は、この合戦で勝てるとは思ってはいない。
武田軍3万人に対して徳川・織田連合軍はわずか1万1千人であり、兵数が半分以下なのに加え、相手は独裁者・武田信玄のためならば死をも恐れない忠実な将兵たちである。
勝ち目などゼロに等しい。
「左右の翼の部分に配置した強力な部隊が、突撃して来る敵の側面を突いて一度でも撃退してくれれば……
その瞬間に全軍を撤退させて『勝ち逃げ』する！」
これこそが家康の狙いであったのだ。
作戦を達成する好機が到来しているのに、肝心の強力な右翼部隊がいない。
そればかりか……
もっと『大きな問題』が発生していた。
「右翼部隊がおらんのは、まずい。
まず過ぎる！
我らは右側面という弱点をさらけ出しているのも同然ではないかっ！」
苛立った家康は、さらに爪を噛み始める。
噛んだ爪から血が滲み出た。
◇
右側面が『弱点』なのは、なぜだろうか？
結論から先に言うと……
ほとんどの人が右利きで、『右側』に刀や槍を持つからである。
試しに、重く長い棒を右側に持ってみると分かる。
左側から来る相手には身体をひねるだけですぐ対応できる。
ところが、右側から来る相手には身体をひねるだけでは対応できない。
右側から来る相手に対応するには、身体の向きも右側に90度回さねばならない。
密集隊形でこれをやると時間が掛かって対応が遅れるのだ。
「弱点をさらけ出したまま動きたくはないが……
左翼の石川数正隊に、武田軍の右側面を突かせるしかないか」
家康がそう呟いたとき、右手からこちらに近付いてくる土煙が見えた。
「おお！
右翼の忠次隊が戻ったぞ！」
皆が喜んだのも束の間のこと……
旗印を見た家康は愕然とした。
膝が、がくがくと震え始めた。
「あ、あれは武田菱に……
内藤昌豊の旗印！
右側面という弱点に、よりにもよって武田四天王をぶつけて来るとは！
嗚呼……」
正面の敵に対応するので精一杯なのに、弱点の右側面を武田四天王に突かれてはたまらない。
まさに瞬殺であった。
「さ、左翼から兵を回せ！
何とか食い止めよ！」
武田四天王への恐怖に怯えながら、何とかこう命令を発したとき……
さらに驚愕の光景が広がっていた。
「左翼も崩壊している！？
い、いつの間に？」
石川数正という歴戦の武将を左翼に置いたにも関わらず……
軍装を真紅に染め上げた武田軍最強部隊として有名な、武田四天王の一人・山県昌景率いる赤備えの突撃を食らって一瞬で崩壊していたのだ。
「あの数正隊を瞬殺だと？
赤備えは、化け物の集団なのか！？」
家康はたまらず絶叫する。
「信玄の真の目的は、鶴翼の陣で我らを包囲殲滅することにあったのでは？
まんまと信玄めの罠に嵌まっていたのか！
つまり……
あの魚鱗の陣は、ただの見せかけであったと！」
【次話予告 第六十話 器用な息子、武田四郎勝頼】
四郎勝頼が率いる別働隊の動きは異常なほど早いものでした。
難所を越え、難攻不落の城を落とし、大規模な兵站拠点を築く……
本来ならばどれも面倒なことを『手早く』済ませてしまったのです。
