第五十二話 武田家を滅ぼす策略
遠江国の御厩崎[現在の静岡県御前崎市]。
現代では『御前崎』と呼ぶ。
静岡県浜松市から国道190号線を東へ40kmほど行ったところにある岬で、東に駿河湾を、南に遠州灘を望める風光明媚な場所だ。
この岬という海へ向かって突き出た『地形』があるために……
西から駿河湾内の清水港へと向かう船は、何百年にも亘って御前崎を迂回して航行することを余儀なくされてきた。
加えて御前埼より3キロほど沖合へ出ると、海中に大きな岩が存在する暗礁地帯がある。
航行する船がこれに引っ掛かると『座礁』し、沈没の原因となってしまう。
1950年代には、たった4年間で十数隻もの船が座礁した。
これを重く見た政府は1958年に目印を設置し、近付く船に警告を与えることで解決を図ったらしい。
その400年ほど前の戦国時代。
堺[現在の大阪府堺市]の港から武田信玄が築いた江尻の港[現在の清水港]へと向かう船の安全な航行は、非常に困難であったことだろう。
暗礁地帯を避けるためには……
徳川家康の領地である御厩崎という『敵地』から、たった3キロ以内を航行しなければならないのだから。
◇
「武田家を最強の武力を持つ大名にしてみせましょうぞ」
前田屋の手配した船が、鉄砲の弾丸と火薬を大量に積んで堺の港を経った。
友ヶ島水道を抜け、紀伊半島の潮岬、伊勢志摩の大王埼、そして御厩崎を回り込んで江尻の港を目指している。
目的地が近付くにつれて……
船頭の一人がある『不安』を口にした。
「問題は、御厩崎じゃ」
「問題?」
「徳川家の水軍拠点がある」
「何と!
ならば、沖合へ出るしかないか」
「おぬしは知らんのか?
『しばらく』沖合へ出た海中には、暗礁地帯がある」
「何と!?
ならば、もっと『大きく』沖合へ出るしかないと?」
「馬鹿を申すな!
『潮の流れ[黒潮のこと]』に飲み込まれるぞ!」
「潮の流れ?」
「日ノ本を西から東へ流れている潮の流れよ。
大きく沖合へ出れば、駿河国どころか下総国[現在の千葉県館山市、白浜町など]まで流されてしまうわ」
「船の座礁を防ぎ、なおかつ潮の流れを避けるには……
敵の水軍拠点の近くを通るしかないのか!」
「深夜にこっそり通過しよう」
◇
一人の使者が……
徳川家康の居城・浜松城[現在の静岡県浜松市]へと到着する。
「おお!
左馬助[明智秀満のこと]ではないか」
「家康様。
ご無沙汰しております」
「そなたが使者になったということは……
明智光秀殿が練った『策略』を伝えに来たのであろう?」
「はっ」
「やはり、か。
どんな策略を?」
「まずは、『結論』から先にお伝えさせて頂きます。
織田信長様は……
武田家を不倶戴天の敵と見なすことを決断されました」
「ふ、不倶戴天の敵!?
一戦して勝利する程度でなく、武田家そのものを滅ぼすつもりだと?」
「御意」
「それでは、世が戦国乱世へと逆戻りしてしまうぞ!」
「家康様。
『なぜ』、そうお考えに?」
「左馬助よ。
武田家は、信玄という『絶対的な権力者』が君臨している」
「……」
「加えて棒道を張り巡らせるなど、『補給を重視』している」
「……」
「命令に忠実で、しかも常に全力で戦える兵を相手に戦えば泥沼化は必至であろう?」
「……」
「そもそも。
武田家を滅ぼすことが、どういうことか分かっているのか?」
「甲斐国[現在の山梨県]へと攻め込んで全ての領地と財産を奪い、城という城を全て落として帰る場所をなくし……
誰一人として生活することができない状況に追い込むことです。
そして最後は命請いさえ拒み、ことごとく殺し尽くします」
「要するに、虐殺と略奪ではないか!
こんなものは我らが『すべき戦』ではないぞ!」
「家康様。
全ては一人の女子の『死』からでした」
「左馬助よ。
それは、誰のことじゃ?」
「あの信長様が手元に置いて大切に育て……
実の娘以上に愛情を注いでいた御方」
「あの女子が……
亡くなったのか!」
「周到な罠に嵌められたのです。
これを知った信長様は、2つの勢力を滅ぼすことを決断されました。
戦国乱世に終止符を打つ使命よりも、己の復讐を優先することに……」
「待て!
今、『2つの勢力』と申したか?」
「はい」
「1つ目が武田家として、もう1つはどこぞ?」
「愛娘の抹殺を企てた武器商人たちが住む……
『京の都』です」
「あの千年の都である京を……
灰に!?」
「主の光秀様はこう仰いました。
『一つ。
はっきりしていることがある。
裏でこそこそと動く武器商人どもの存在を許している限り、戦国乱世に終止符を打つことなどできん』
と」
「……」
「続けてこう仰せでした。
『信長様が己の復讐を優先するのは愚かな行為ではあるが……
武器商人どもが企てた戦の『末路[バッドエンドのこと]』がどれだけ悲惨なのか、世の人々へ示す機会と捉えよう』
と」
「まさか!
企てた首謀者だけでなく……
武田家のような、企てと知らずに利用された者までも滅ぼすと?」
「そもそも。
他人に利用される愚か者のせいで邪悪な企ては『成立』し、大勢の犠牲者を生んできたのです」
「そ、それは……」
家康は思わず身震いした。
◇
「左馬助よ。
そなたは先程こう申したな?
『甲斐国へと攻め込んで武田家の全ての領地と財産を奪い、城という城を全て落として帰る場所をなくす』
と」
「はい」
「それは容易なことではないぞ?
甲斐国は、険しい山々を越えた先にある。
天然の要害が壁となって立ち塞がっている以上……
攻め込んだところで、返り討ちに合うだけではないか」
「仰せの通りです。
ですから……
予め、武田家を『弱体化』させておくのです」
「何っ!?
あの武田家を弱体化させる方法があると?」
「あります。
その場所が、家康様の領内にあることを……
地図を見た光秀様は見抜かれました」
「わしの領内に!?
それはどこじゃ?」
「遠江国の御厩崎。
しばらく沖合へ出た海中には暗礁地帯があり、大きく沖合へ出れば潮の流れ[黒潮のこと]に飲み込まれる場所です」
「要するに。
我が徳川水軍を動かして近くを通る船を悉く拿捕し……
武田信玄が鉄砲の弾丸と火薬を入手する手段を奪えと申すのだな?」
◇
明智光秀が練った策略。
これは、現代の言葉を使うと『経済封鎖作戦』となる。
分かりやすい例で言うと……
太平洋戦争直前、1930年代の日本だろうか。
当時の日本は世界恐慌の影響で大不況に陥っていた。
軍部と企業が一体となって中国へ侵攻し、メディアも強力に後押しした。
これを見たアメリカは、中国の肩を持つ。
「侵略を止めよ。
日本への石油輸出を止めるぞ」
と。
この通告に……
日本政府は、はたと困り果てた。
戦争の利益が『国民』にまで行き渡っていたからだ。
国民は声高に打倒米英[アメリカとイギリスのこと]を叫んで盛んにデモを起こしている。
米英との妥協点を探る日本政府に対して……
今度は、『メディア』が弱腰外交を非難し始めた。
なぜ、メディアまでが敵に回ったのか?
理由は至って簡単である。
メディアの主人が、政府でもなければ、国民でもなく、『広告主』だからだ。
輝いて見えるメディアも、実際は広告主に忠実な奴隷に過ぎない。
お金を支払う相手に忠誠を誓うのが人間の常なのだから。
行き詰った日本政府は、ついに米英への宣戦布告を決断した。
対独[ドイツのこと]戦で苦戦に陥っていた英仏[イギリスとフランスのこと]は、アメリカの参戦に小躍りした。
この当時の日本人は……
一つ『肝心』なことを忘れていたのだろう。
米英が世界の石油の90%を握っていることだ。
中東の石油はまだ開発されておらず、70%をアメリカが、20%をイギリスに近い国々が生産していた。
「打倒米英など絶対に不可能」
数字を見れば小学生にだって理解できる。
当時のメディアはこれほど簡単な『数字』からも目を逸らし、強い『精神』さえあれば打倒米英が可能だと思っていたのだろうか?
こうして日本は打倒不可能な相手に戦争を挑む。
国民は戦争を賛美して大きな期待を寄せたが、軍首脳部の作戦指導は間違いだらけであった。
前線への食料や武器弾薬の補給を怠り、貴重な兵力を無駄に消耗していく。
アメリカが用いた経済封鎖作戦は……
結果として太平洋戦争を引き起こして日本を焼け野原にし、日本人だけで300万人以上の命を奪ったのである。
◇
深夜。
御前崎の近くを通った船が徳川水軍に拿捕され、積まれていた鉄砲の弾丸と火薬を全て奪われた。
この報告を聞いた武田信玄は……
武田家を弱体化させ、やがて滅ぼそうとする策略の存在を確信する。
『策略』に抗うべく、信玄は西上作戦を開始した。
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす 終わり