第五十一話 織田信長の愛娘、その遺言
とある夫婦の最後の一夜に起こった出来事である。
夫は武田信玄の後継者・四郎勝頼であり、妻は織田信長の愛娘のことだ。
「この夫婦が健在である限り、武田家と織田家は盟友であり続けるだろう。
日ノ本の東を武田家が、西を織田家が取り纏め……
強大な武力を以って争いを鎮める。
これで、戦国乱世に終止符を打てるぞ!」
武田四天王にこう期待させた夫婦も、最後は『死』が二人を分かつのだ。
今まさに……
武田家と織田家を結ぶ糸が切れようとしている。
◇
妻から全てを聞いた勝頼は、最初に激しい怒りを覚えた。
「おのれ!
武田信豊に、穴山信君!
武田四天王の足元にも及ばない『無能』ぶりに加え、武器商人ごときの口車に乗せられて我が妻を罠に嵌めおって!
奴らはどこまで武田家の足を引っ張れば気が済むのだ!」
もっと激しい怒りを覚えたのが、あの男に対してであった。
「前田屋め……
奴だけは絶対に許さん!
わしが当主となった瞬間、真っ先に始末してやる。
この世で最も惨たらしい殺し方でな!
一族全員、女子供まで根絶やしにしてやろうぞ!」
ただし。
最後の一夜である以上、『時間』は何よりも貴重である。
夫はすぐに怒りを鎮め、妻に対して笑顔を見せるまでに感情を制御した。
それを見た妻は、夫の手を握って語りかけた。
「あなた。
事実の全てを『明らか』にするつもりですか?」
「わしは、そなたを傷付けた者どもに復讐したいのだ。
全てを明らかにした上で……
関わった奴らを皆殺しにしてやりたい」
「……」
「そなたの無念を晴らすためならば、わしはどんな犠牲を払っても構わん」
「あなた。
わたくしの無念を晴らすことよりも、もっと大事なことがあるのではありませんか?」
「……」
「それに、お父上の信玄様がお許しにならないのでは?」
「……」
「お父上は駿河国の江尻[現在の静岡市清水区]の地に港[現在の清水港]を築かれました。
これによって、前田屋は堺から直接船を回して鉄砲の弾丸と火薬を大量に届けることが可能となるのでしょう?」
「……」
「他でもない、あなたが仰っていたことです。
『強大な武力を持つのに必要なモノを、あの前田屋に全て握られてしまった!』
と」
「その通りだ」
「あなたのお気持ちは嬉しいのですが……
事実の全てを明らかにすることは、今すべきことではないと思います」
「では……
どうすべきだと?」
「むしろ、この事実を『隠す』のです」
「な!
隠せと申すのか!?」
「さもなくば……
父の織田信長様は、武田家を不倶戴天の敵と見なすに違いありません」
「ふ、不倶戴天の敵!
己か相手のどちらかが滅ぶまで『徹底的』に戦うことになると……」
「父は冷淡とは真逆で、感受性が非常に強い御方。
相手の気持ちを素直に汲み取って感情移入してしまいます。
だからこそ思いやりがあって優しい反面、感情に流されやすく喜怒哀楽が激しいのです。
愛娘を傷付けた者たちへの復讐心に加えて……
女子や子供などの弱い人を守らない者たちへの嫌悪感も加われば、武田家に対して激しい『憎悪』を抱くでしょう」
「だから武田家を不倶戴天の敵と見なすのか……」
「あなた。
武田家と織田家がそんな戦いを始めれば、どうなります?
ようやく掴みかけた平和が見るも無惨に崩れ去り、世は戦国乱世へと逆戻りしてしまうではありませんか」
「くっ……」
「武田家と織田家は決して戦ってはならないのです」
「……」
「あなた……
お願いです。
わたくしが、この恵林寺以外の寺に『自ら』出家したことにしてください」
「自ら!?」
「そして、わたくしは『病』で死んだことに……」
「し、しかし!
そなたを手元に置いて大切に育てた信長殿に『嘘』を付くことになるのだぞ?」
「父には嘘を付く方が良いと思っています。
父が『過ち』を起こさないために必要なことだからです」
「過ち、とは?」
「激情に流されるままに……
戦国乱世を終わらせるという使命よりも、愚かにも己の復讐を『優先』すること」
「今……
強く確信したことがある。
信長殿ほどの覇者が、なぜ数ある姪の中で、しかも幼少の、そなた『だけ』を手元に置きたいと強く願ったのか……」
「……」
「そして、わしが愛おしくてたまらない理由も……」
「あなた」
「常に己よりも相手を優先しようとする、そなたの人柄に惚れ込んでしまったからだ」
「ああ、あなた……」
「頼む!
ずっとわしの側にいてくれ……
死なないでくれ!」
愛する妻が息を引き取る瞬間を見た夫は、思わずこう叫ぶ。
「どうしてだ!
どうして、死が二人を分かつのか!
誰か教えてくれ!
どうして、人は死ななければならないのか!」
動物と比べてはるかに『特別』な存在であるはずの人間が、どうして動物と同じように悲劇の死を迎えねばならないのか?
有史以来、無数の人間が投げ掛け続けた疑問の答えは……
どの書物を読めば得られるのだろうか。
◇
「亡き妻の『遺言』を無駄にしてはならん」
勝頼は、父に2つのことを頼む。
1つ目は……
妻の遺言にあった通り、妻が毒殺された事実を隠すことだ。
そして2つ目。
兄弟の中でも、妻を最も慕っていた妹を呼んでこう言った。
「松よ。
兄の頼みを聞いて欲しい」
「何です?」
「織田家へ嫁いでくれないか」
「どなたに?」
「信長殿の後継者である信忠殿だ」
「武田家と織田家を結ぶ糸を切れさせないためですか?」
「亡き妻の遺言でもある」
「遺言?」
「『武田家と織田家は決して戦ってはならない』
と。
行ってくれるか?」
「あの御方の願いならば……
松は、喜んで参ります」
「そなたが、両家を結ぶ新たな糸となるのだ。
頼んだぞ」
武田信玄の要請を織田信長が受け入れたことで、松姫と信忠の婚約が成立する。
織田信長の愛娘の死に関する事実が隠され……
武田家と織田家で新たな縁が結ばれたことで、両家の糸は切れないかのように見えた。
◇
偶然か、必然か。
織田信長が家臣に出した一つの命令によって……
両家の糸は綻びを見せることになる。
「娘の戒名は龍勝院だと聞いた。
名前からすれば、伊那谷の高遠[現在の長野県伊那市高遠町]にある龍勝寺で亡くなったのであろう?
何でも良いから、娘の遺品をもらってきてくれないか」
と。
ところが!
龍勝寺には遺品どころか何の痕跡もないことを知り……
信長は、持っていた扇子をへし折るほどの怒りを露にしてしまう。
「おのれ、武田め!
わしの愛娘によくも……
出家も、病も、全部『嘘』ではないか!」
信長の傍らには、少年のような側近がいる。
名前を万見仙千代と言う。
「お察し致します……
信長様が、手元に置いて大切に育てておられた御方と聞いております。
多くの時間を共に過ごし、実の娘以上の『愛情』を感じておられたのでございましょう?」
信長の目から涙が流れた。
「仙千代よ。
わしは、あの娘の人柄に感心していた。
常に相手の立場になって考えようとする賢くて立派な女子であったからじゃ。
武田家へ嫁ぐよう頼んだわしに対して……
愛娘は、またも応えてくれた。
『戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成する。
この信長様の志を貫くために……
わたくしは、必ず使命を全うします』
とな。
気付けばわしは……
愛娘を強く抱きしめていた。
頼んだことを後悔するほど、愛おしくてたまらなかった」
そして信長は、愚かにも激情に流されるまま走り始める。
「罪のない人を傷付けておきながら、何の代償も払わずにのうのうと生きている、どうしようもない奴ら。
女子や子供などの弱い人を守るどころか、平然と傷付けることができる、どうしようもない奴ら。
わしは、このような奴らを絶対に容赦しない姿勢を貫くため……
武田家を根絶やしにして、世の人々への『見せしめ』とする」
「信長様。
武田家を不倶戴天の敵と見なすおつもりですか?」
「愛娘を傷付けた奴らは、すべて不倶戴天の敵じゃ!
この世から『一掃』してやる」
「お待ちください。
信長様に一目置いている武田信玄が、信長様の愛娘を傷付けるはずがありません」
「……」
「それに。
織田家と武田家がそんな戦いを始めれば、どうなります?
ようやく掴みかけた平和が見るも無惨に崩れ去り、世は戦国乱世へと逆戻りしてしまうではありませんか」
「仙千代よ。
そちの意見は正しい。
正しい、が……
この激情を抑えることはできそうにない。
直ちに明智光秀を呼べ」
「はっ。
かしこまりました」
「光秀に、愛娘を傷付けた奴らを滅ぼす『策略』を練ってもらわねばならんからな」
【次話予告 第五十二話 武田家を滅ぼす策略】
一人の使者が……
徳川家康の居城・浜松城へと到着します。
明智光秀が練った、武田家を滅ぼす『策略』を伝えに来たのです。