第四十四話 武田信玄の弟・信繁という名の重み
武田信玄と秋山信友の会話は続く。
「そちは、民が大変な目に合っている状況を無視しなかった。
己の都合よりも……
他人を守ることを優先した。
むしろ立派な振る舞いではないか!」
「……」
「そちは、ただ『失敗』しただけに過ぎん」
「……」
「信友よ。
我が弟、信繁のことを覚えていよう?」
「もちろん覚えております。
己の利益よりも、他人の利益を優先するような御方でした。
謙虚で大勢の人に慕われていました。
川中島合戦では中央突破を狙う上杉軍本隊に正面から立ち向かい、最後は我が身を犠牲にして武田軍本隊壊滅の危機を救われたのだとか」
「あの真田幸隆が……
まだ幼い孫を連れて来て、こう申したのじゃ。
『この子は、信繁様が亡くなられた年に生まれました。
殿!
何卒!
この子に、信繁と名付けることをお許し頂きたく』
とな」
「『真田信繁[後の真田幸村の本名]』殿……
真に良い名かと」
「うむ。
あの子が弟の生まれ変わりならば、さぞかし立派な男になるだろう」
◇
話が脱線するが……
この会話から数十年後、1614年。
豊臣家が終焉を迎えた最終決戦・大坂城の戦いの年である。
太閤秀吉が難攻不落の城として築いた大坂城は、堀のない裸城と化していた。
徳川家康が提案した偽りの停戦にまんまと騙されたからだ。
「堀のない大坂城など、赤子の手をひねるようなものぞ。
この機に豊臣家を完全に滅ぼせ!
全てを灰にするのじゃ!」
停戦により撤収中の十万人もの徳川の大軍が、堀を埋め終わった大坂城へ向けて取って返す。
豊臣家はもはや風前の灯火であった。
そんな悲壮感漂う状況の中で、大坂城にいる主への『忠義』を貫いて決死の突撃を試みる2人の武将がいた。
一人は毛利勝永。
敵の有力な3人の武将を瞬く間に討ち取り、立ち塞がる10近い部隊を撃破して、家康本陣を丸裸にしたのである。
そしてもう一人が……
『武田信玄の弟・信繁という名の重み』を受け継いだ、真田信繁[真田幸村]であった。
「全軍突撃!」
軍装を赤一色に染め上げた信繁[幸村]軍が、ついに動き出す。
「赤一色に染め上げた軍勢が突っ込んでくるぞ!
あれは……
誰もが見ただけで逃げ出すという、武田の赤備えではないか!」
丸裸となった家康本陣の兵士たちは恐怖に震えた。
彼らはかつて……
武田四天王の一人・山県昌景率いる武田の赤備えを相手に戦って夥しい犠牲者を出し、その尋常ならざる強さを身をもって味わわされ、親兄弟と友人を多数殺されている。
「攻めるときは必ず、相手の弱点を突け」
武田家随一の知恵者・信繁から多くを学んでいた真田信繁[真田幸村]の策略は見事に的中した。
家康本陣を大混乱に陥れ、たった一撃で粉砕して見せた。
「こんな軍勢を相手に生きて帰れるわけがない!
し、死ぬう!
死ぬぞ!
信繁、か。
まさに天下一の男よ!
ああいう男こそ、敵ではなく味方であって欲しかった!」
敵の家康も絶賛したと伝わっている。
真田信繁[真田幸村]は……
その人生の最後に至るまで、信繁という名に恥じぬ『生き方』を全うしようとしたのだろうか。
◇
信玄と信友の会話は続く。
「信繁は、そちの申す通り立派な男であった。
わしは……
弟が残してくれた言葉の一つを、よく覚えている」
「どんな言葉です?」
「『失敗したことのない者は、何も挑まなかった者のことである』
とな」
「……」
「信友よ。
よく分かったであろう?
他人を守るために何かに挑み……
あるいは最後まで信念を貫くために何かに挑んで……
その結果として失敗したことが、恥などであるものか!」
「信玄様……」
「失敗を誹謗し、中傷してくる奴のことなど相手にするな。
『安全』な場所から囀っているだけではないか」
「……」
「何かに挑む度胸すらなく、いざというときに人のためになるどころか、無用な囀りで人の邪魔しかできない連中ぞ?
相手にするだけ時間の無駄じゃ」
「有難きお言葉……
恐悦至極に存じます。
主の言葉に、この秋山信友!
目が覚めました」
こうして信友は、自害を思い留まったのである。
◇
「信友よ。
わしは再三に渡って己の利益ばかりを騒ぎ立てる民に苦しめられたが……
この村の民は違っていてな。
わしの考えを理解しようと努めてくれた。
無理な頼みを何度も聞いてくれた」
信玄の脳裏に、村の住人と交流していた頃の記憶が蘇ってくる。
自分に対して笑顔を向けてくれる人々の顔が走馬灯のように映っては消えた。
止まっていた涙が、また流れ始める。
そして。
凄まじいほどの激情が信玄の身体を熱くしていく。
「わしはな……
罪のない人を傷付けた奴らが、何の裁きも受けずにのうのうと生きていけるような世を絶対に許しはしない」
「はっ」
「そしていつか……
人でなしの伊賀者どもを根絶やしにし、この世から一掃してくれん!
だがその前に!
信友よ。
今、何をすべきか分かるな?」
「それがしが今すべきことは……
伊賀者どもに、己が犯した罪の代償を払わせることです」
「その通りじゃ」
◇
信玄と信友は、具体的な話を始める。
「そちならば、伊賀者どもが向かった先も調べていよう?
どこへ向かった?」
「信濃国の諏訪郡[現在の諏訪市、岡谷市、茅野市など]へと向かったようです」
「諏訪郡か。
四郎勝頼の治めている土地だな」
「既に勝頼様へ、早馬を走らせております」
「さすがじゃ。
相変わらず判断が早いのう。
わしが見込んだ男だけのことはある」
「はっ!」
「して信友よ。
諏訪郡から先、奴らはどこへ向かうと思う?」
「徳川家康の領国である遠江国への最短距離を取るため……
諏訪郡から伊那谷[現在の伊那市、駒ケ根市、飯田市など]へ入るものと」
「伊那谷には、そちの領地もあったな。
よし!
決めたぞ!
信友。
直ちに伊賀者どもを追え。
そちには、伊那谷にいる武田軍『全て』を預けることとする」
この命令にはさすがの信友も驚きの声を上げた。
「す、全てにございますか?
伊那谷には数千人の軍勢がおりますが……」
「不服なのか?」
「い、いえ!
そうではなく……
我が秋山の家は、武田家の中では名もなき家にございます。
そんな『無名』のそれがしが数千人もの兵を預かって良いのでしょうか?」
「案ずるな。
そちにはそれだけの実力がある。
それを買ってのことじゃ」
「有難き幸せ!」
「良いか、信友。
何か不測の事態が起こったとしても……
そちが、その場で判断せよ。
なぜか分かるな?」
「殿の指示を仰ぐために甲府へ早馬を飛ばしていては……
貴重な時間を『浪費』してしまいます」
「その通りじゃ。
孫子の兵法にもある。
『兵は神速を尊ぶ』
とな」
「心得ました」
「諏訪郡のことは勝頼に任せ、そちは伊那谷へ先回りせよ。
では行け!」
「はっ!」
直ちに騎乗した信友は、馬に鞭を打って一目散に駆け出した。
◇
伊那谷。
現在の長野県伊那地方である。
『東』は甲斐駒ケ岳、赤岩岳を始めとする3,000メートル級の南アルプスの山々がそびえ立ち、『西』も千畳敷カールで有名な宝剣岳、檜尾岳を始めとする木曽山脈が壁のように立ち塞がっている。
伊那地方が『谷』と呼ばれる所以であり、人間が普通に移動できるのは南北しかない。
数年後にはリニア中央新幹線がこの東西を貫く予定ではあるが。
諏訪湖から南西へ数キロ行った辰野町からが伊那谷であり、そこから南へ伊那市、駒ヶ根市、飯田市と比較的開けた土地が続く。
ところが……
天竜峡あたりで天竜川の両側を崖が迫る峡谷へと景色は一変する。
この峡谷をさらに数十キロ南下してようやく静岡県浜松市や愛知県新城市へと辿り着けるのだ。
要するに。
伊那谷から徳川家康の領国へと入るには、峡谷という狭い道を進むしかない。
狭い道だからこそ封鎖は『容易』にできる。
信友は、直ちに兵を派遣して道という道を尽く封鎖した。
南アルプスと木曽山脈という壁が東西にあり……
信友が南の道を全て封鎖し、諏訪郡にいる武田軍を率いた勝頼が疾風迅雷の早さで『北』から迫ったことで……
犯人の伊賀者たちは、袋の鼠となるはずであった。
ところが!
とんでもない報告が信友にもたらされた。
「伊賀者どもが……
伊那谷から消えております」
「何だと!?
奴らはどこへ行った?」
「飯田から木曽の山中へと入り、美濃国の恵那郡[現在の岐阜県中津川市、恵那市など]へと向かった模様です」
「恵那郡?
織田信長殿に属する遠山一族の領地ではないか。
伊賀者どもは、武田軍と織田軍を衝突させるつもりなのか!」
【次話予告 第四十五話 女城主・おつやの方】
遠山一族の一つ、岩村遠山家の居城・岩村城。
日本三大山城の一つとされています。
この岩村城を特に有名にしているものは、『女城主・おつやの方』の存在でした。