第二十九話 室町幕府の秩序
武田軍が、東側より送り込まれた北条の大軍に駿府国[現在の静岡県東部]で足止めされている間……
西側から侵攻した徳川軍は、お田鶴の方[大河ドラマのどうする家康では関口渚さんが演じている]の徹底抗戦に一時は苦しんだものの、結果として徳川軍は多くの血を流さずに遠江国[現在の静岡県西部]を制圧した。
徳川家康は直ちに三河国の岡崎城[現在の愛知県岡崎市]から遠江国の浜松城[現在の静岡県浜松市]へと本拠を移す。
国の支配を『既成事実』とするためだ。
浜松は、元々の地名を曳馬と呼ぶ。
「曳馬という地名は……
馬を退くとも読めてしまう。
退却を連想させる言葉ではないか!
縁起が悪い!」
家康の主張に、家臣たちは呆れたらしい。
「縁起の悪い名前には感じませんが。
気にし過ぎでは?」
「言葉の力を甘く見ているぞ!
普段から退く、などと申せば……
真に退くこととなるではないか」
「……」
「わしは、不退転の決意でこの国を制圧したのじゃ。
『退く』などという言葉を絶対に使ってはならん!」
「はあ……
では、どんな名前がよろしいので?」
「うーん。
さっき、海岸に松林があるのを見掛けたぞ?
浜にある松……
浜松でどうよ?」
家臣たちはますます呆れたようだ。
「え?
浜にある松だから、浜松?
いくらなんでも芸が無さ過ぎでは?」
「何を申すかっ!
民の視点で考えよ。
曳馬よりも浜松の方が、ずっと呼びやすく、ずっと覚えやすい。
しかも松竹梅の松で縁起も良い!
浜松じゃ!
浜松にしようぞ!」
「……」
家臣たちは、反論するのも面倒になった。
やや強引に浜松という名前が誕生した。
それにしても。
織田信長が命名した、岐阜、安土などとは大違いな気がする。
家康には信長のようなセンスがないのかもしれない。
◇
家康を前にして、明智光秀はこう言っていた。
「天下人に相応しい御方だと認められるには、4つのことを重視しなければならない。
第一に、約束を守ること。
第二に、弱き者を守ること。
第三に、友を選ぶこと。
第四に、秩序を守ること」
だと。
第四の秩序は、非常に曲者でもあった。
秩序を守るためならば……
約束を破ることも、弱き者を見捨てることも、友を敵とせねばならないこともあるからだ。
◇
家康は、光秀が何を言いたいのか測りかねていた。
光秀は構わず話を続ける。
「家康殿。
まずは、『事実』をはっきりさせようではござらぬか」
「事実?」
「武田軍が北条の大軍を全て引き受けたからこそ……
お田鶴の方のの徹底抗戦に一時は苦しんだものの、結果として徳川軍は多くの『血を流さず』に遠江国を制圧できた」
「……」
「多くの血を流さずに済んだ家康殿が、遠江国の『一国』を我が物にしたこと。
一方で北条の大軍を相手に多くの血を流した信玄殿が、駿河国の『一国』を我が物にしたこと。
これは公平なことに見えるだろうか?」
「光秀殿。
それがしは、信玄と密約を交わしていたのです」
「どんな?」
「大井川を境に……
東側を武田が、西側を徳川がそれぞれ分け取りとすることを」
「家康殿。
そんな単純な話で『決着』できると、真にお考えだったのか?」
「そ、それは」
「大井川は……
水運[船による輸送]として、田畑に必要な水として、駿河国と遠江国両方にとって貴重な川のはず。
その権利をどう分けるかの具体的な話し合いは?」
「……」
「武田軍と徳川軍が『力を合わせて』制圧に成功すれば、大井川あたりを境に分け取りとする。
この程度のことを取り決めただけでは?」
「その通りです」
「要するに。
信玄殿との密約は……
互いに納得するまで十分に話し合った上で交わしたものではなかった。
家康殿が、己の都合の良いように解釈しているだけだと」
「……」
事実を理路整然と詰めていけば、どう見ても家康の方が分が悪そうだ。
◇
「光秀殿。
お忘れでしょうか?
遠江国を攻めるに当たり……
それがしは、信長殿を通じて室町幕府へ届け出ております」
「存じている」
「このような返答がありました。
『遠江国は元々、足利将軍家一門の筆頭が治める国であった』
と」
「足利将軍家一門の筆頭?
幕府軍の『主力』を務める武衛家[武勇に優れた家という意味]と呼ばれ、幕府の管領職にも就いていた、斯波家のことでござるか」
「その通りです。
今川家は、その斯波家から遠江国を力ずくで奪い取ったのですぞ」
「……」
「『室町幕府の秩序』で考えれば……
今川家も、武田家も、遠江国を我が物とする正当性などないではありませんか」
◇
ここで。
室町幕府の秩序について知っておくために……
足利将軍家一門の筆頭・斯波家と、二番手・畠山家について話しておきたい。
畠山家の先祖は、鎌倉幕府の執権・北条時政[大河ドラマの鎌倉殿の十三人では坂東彌十郎さんが演じている]によって謀反人扱いされた畠山重忠[同ドラマでは中川大志さんが演じている]である。
武勇の誉れ高く、しかも清廉潔白で、武士の鑑とも言われた人物であったらしい。
これほどの立派な人物を殺害した時政は激しく非難され、息子の義時[同ドラマでは小栗旬さんが演じている]によって執権の座を追われてしまう。
実の父親を追放した義時は……
重忠と親しかったのもあり、畠山家を何とか存続させようと尽力する。
目を付けたのは鎌倉幕府を開いた源頼朝に匹敵するほどの源氏の名門・足利家であった。
「足利家から養子を迎えて畠山家の当主とすれば、由緒ある家として生き残れるだろう。
重忠殿の無念も晴れるに相違ない」
と。
こうして畠山家は、足利家一門の仲間入りを果たした。
後に足利尊氏が後醍醐天皇の命令に従って鎌倉幕府を討つことを決断すると……
畠山軍は足利家一門として獅子奮迅の働きを見せる。
これに敗北した鎌倉幕府の執権・北条義時の末裔たちは、全員そろって自殺せざるを得ない状況に追い込まれた。
「おのれ!
畠山!
義時公より受けた恩を忘れ、我らに刃を向けるとは!
裏切り者!
全員呪い殺してやる!」
義時の末裔たちがどれほどの恨みを残して逝ったか、察するに余りある。
畠山家を存続させた義時自身も……
後に、自身の末裔が畠山家によって根絶やしにされるなど夢にも思わなかっただろう。
歴史は何がどう転ぶか分からない。
◇
もう一つ。
足利将軍家一門の筆頭として、遠江国に加えて尾張国[現在の愛知県西部]と越前国[現在の福井県]を治める斯波家であったが……
やがて今川家に遠江国を奪われ、配下の朝倉家に越前国を奪われ、配下の織田家に名目上の主君と扱われるまでに落ちぶれた。
織田信長が京の都へ上洛して室町幕府の秩序を回復させると、状況はさらに悪化する。
斯波という名前すら『捨てる』ことを余儀なくされた。
幕府が斯波家を切り捨て、織田家を足利将軍家一門の筆頭へと引き上げたからだ。
「斯波も!
畠山も!
今や落ちぶれて見る影もない。
役に立つどころか、足手まといではないか。
足利将軍家一門の『恥さらし』どもが」
斯波家と畠山家と切り捨てた幕府は、こう命令を下す。
「織田家に斯波の名跡を継がせ……
幕府軍の主力を務める武衛家に任命する。
武衛家の務めを果たすために、斯波家から国を奪った奴らを討伐せよ。
一つは越前国を奪った『朝倉家』を。
もう一つは遠江国を奪った『今川家』を」
こうして織田信長に、朝倉家と今川家を討伐する役目が与えられた。
◇
家康と光秀の会話に舞台を戻す。
「役目を与えられた信長殿は、それがしにこう話された。
『わしは朝倉家を討って越前国を取り返す。
家康殿は今川家を討って遠江国を取り返されよ。
三河国の東隣にある遠江国は、家康殿が治めた方が良い』
と」
「……」
「光秀殿。
遠江国を治める『正当性』は、それがしにこそあるのです」
「家康殿!
そのように正当性ばかりを突き詰めていけばどうなる?
北条との戦で多くの血を流した信玄殿も……
家臣たちへの建前もあって引くに引けまい。
争いは激化するぞ?
いずれは信長様も、室町幕府の秩序を守るために信玄殿と戦わねばならなくなるではないか!」
「……」
「織田家と武田家で戦となれば……
どれほどの血が流れるか考えたことはおありか!」
「……」
「それだけではない!
信長様の愛娘の身に危険が及んでも仕方ないと仰せか!」
「申し訳ない……」
「なぜ信玄殿と納得するまで十分に話し合わなかった?
己の都合ばかりを優先するから、余計な争いが起こるのだ!」
【次話予告 第三十話 徳川家康、先祖から受け継いだ信念】
徳川家康は……
織田信長を通じて室町幕府からこう命じられていました。
「遠江国を、奪った奴から取り返せ」
と。