02.(長期休暇と、)送迎依頼-3
再び頭から毛布で包まれたカディアは、目を強く瞑って風を切る音だけに集中していた。カディアを肩に担ぐ——案外軽くマスダと名乗った男が夜の路地を蹴る振動は、速度に反して随分と軽い。
小屋を出る直前、毛布を被せながら交わした会話を思い返す。
「裏の繋がりがあるようなでかい組織じゃないにしても、一人二人のチンピラ相手ってわけじゃない。金もあるみたいだし、それなりに腕の立つ護衛も雇ってるはずなんだよね」
「え……裏に何人いるか分からない、って」
「命乞いされるの面倒くさくてさ。分かんないって言ったら諦めつくかなって」
悪びれずにしれっと話すマスダに絶句してしまう。
「そんなことより。俺が相手に手出した時点で、あんたが狙われるはずだ。俺を脅す道具に使えるし、そもそもあんたが手に入れば向こうの目的は達成なわけだし」
「……逃げた方が、良いのでしょうか」
「素人の足じゃ逃げきれないっしょ。ま、安置見つけるから、合図したらそこで目でも瞑って丸まってて」
「あんち」
「死なない場所ってこと」
軽く話すマスダに、不安は一切感じられない。よっぽど戦闘に自信があるのだろう。
よく分からないが命のために、この男に従おうと、毛布の中でこくりと頷いた。
自分の命は救われるかもしれない。しかし、そうなれば「依頼主たち」はこの男に殺される。少しばかり生まれた心の余裕は、少女に芽生えた罪悪感を意識させるのには十分だった。それを拭いたくて、必死に目を瞑る。そもそも、自分は、被害者なはず。それだけなはず。
そんなカディアの心情などはお構いなしだ。徐々に減速したかと思えば、目的地にたどり着いたらしい。
いよいよ、と。祈るように両手を握りしめる。
コココッ コッ コッ
リズミカルなノック音の後、少し間を置いて、扉の開く音がする。
「……誰だ」
「ブルーローズを配達に」
「……そうか。入りな」
招かれるまま、マスダは室内に入り込む。窓という窓は分厚いカーテンに覆われている。薄暗い灯は点されているが、外からは全く勘付かれないだろう。深夜に明らかにカタギでない者も混じった男たちが集う様子など。
(背後に一人、前に二人。もう一人隠れてるかな。二階にもいるんだろうけど……流石に分からんね)
迎えたガタイの良い男が、マスダの後ろで静かに扉を施錠する。眼前には二人。依頼主かその代理か、質の良い服に身を包んだ男が一歩前に踏み出すのを見ながら、視界の片隅で部屋の奥の階段を見やる。……気配を探るのは難しい。
(何人でもやることは変わんないし、いっか)
「……お前がマスダ、か?」
「うん。合言葉知ってるの俺だけでしょ」
「盗み見た奴がいねえとは限らん」
「そりゃそうだ。でも俺がマスダでもそうじゃなくてもどっちでも良くない? ほら、」
肩に担いでいた荷物から毛布をちらりと剥いで見せる。俯いて影になっているものの、覗いたのは間違いなく、カディア・ローザイドの顔であった。
「依頼はこなしたし」
「なるほど、確かに。では依頼料を——お"ッ」
「きゃあっ」
胸元のポケットから札束の入った封筒を取り出そうとして男が視線を僅かに外した、その一瞬。風を切る音がしたかと思えば、小型のナイフが深々と男の額と喉元に突き刺さっていた。鮮血と共に男の身体が生気を失って揺らぐ前に、カディアが悲鳴をあげる。気がつけば再び毛布に視界は塞がれ、軽く宙を舞った身体を強かに床に打ち付けていた。
「い、痛い」
「丸まってて、気絶だけはするな。目は瞑ってて良いよ」
慣れない痛みに意識が揺らぎかける中、マスダの声を必死に拾う。頷きながら、痛む四肢を動かして出来る限り小さく丸まった。ちらりと毛布の隙間から見えた様子から、玄関側に投げられたことを悟る。入ってすぐ右手に大きなクローゼットがあったので、それと壁で出来た一角にいることを把握した。
そこからは、酷い騒音の渦に飲み込まれた。
「てめえ!!」
柄の悪い声が怒鳴り散らし、知らぬ声が何かを叫ぶと、重いものが床に打ち付けられる音が響く。何かが折れた音は、大きなテーブルの足か何かだと思いたかった。合間を縫うように風を切る音がして、ぐしゃりと何かが倒れ伏す音、ぴちゃぴちゃと液体が床に溢れるような音もやけに大きく聞こえる。ドタドタと聞こえるのは、二階から複数人が慌ただしく降りてくる音だろうか。それも間も無く止んで、次はガラスが派手に割れる音。位置関係からカディアに降り注ぐことはないと理解はしていても、より身を縮めずにはいられなかった。
と、必死に毛布の中で身体を小さくしていると、すぐ近くからバタンと騒々しく扉を開く音がした。玄関側ではない、とすると、音源は己が身を預けているクローゼットしかないだろう。理解した瞬間、思わず小さく悲鳴が漏れた。
「ひ、っ」
「あ? ……なんだ、」
毛布越しに視線があったような空気に、心臓が凍りそうになる。クローゼットに身を隠していたらしい男も、すぐにその中身に気がついたようだった。毛布の向こうから、何か鋭いものが突きつけられる感覚。正体を脳が処理する前に、男が怒鳴る。
「おい、こいつがどうなっても——ぴっ」
その途中で、目の前で何かが崩れ落ちた。
「でかい図体でこんなとこによく隠れるよね」
「よそ見かあ!?」
「おっと! ……まだ気絶してない?」
何かが弾ける音、金属音に混じる問いかけるような声色が、自分に向けられたものだと理解する。カラカラに乾燥した声で何とか返事をした。
「は、はい、」
「ならOK。怪我はさせないから、そのままじっとしてて、ね!!」
返事はしたものの、徐々に何の音なのか輪郭が浮かんできてしまい、精神的には限界も近かった。身体を抱き締めるように腕を掴む手に力を込めて、爪が皮膚にめり込む感覚で意識を保つ。
家を埋め尽くす、怒号、うめき声。小さな爆発音までするものだから、自分が無事なのかすら分からなくなりそうだった。
いつまでも続くのではないかと思っていたそれらも、やがて徐々に衰退を見せる。重いものが倒れ伏す音がして、それを最後に静寂が訪れた。代わりにはあはあと荒い呼吸音が目立って、カディアは自身の呼吸がそれほど乱れていたことを初めて知った。それと同時に、酷い匂いが鼻をつく。冷静さを取り戻し始めた脳が、ようやく嗅覚に仕事をさせだしたのだろう。吐きそうになるのをなんとか堪えていると、急に視界が開ける。
「あ、」
「お待たせ」
「……あ、え、」
毛布を剥ぎ取ったのは、マスダだった。その向こうに何人もの人間が倒れ伏しているのを、暗闇に慣れた視界が捉える。それが死体であると理解する前に、カディアの身体が宙に浮いた。
「きゃっ」
「一旦戻るから、大人しくしてて」
「は、はい」
来た時と同様、マスダの肩に担がれたらしい。扉の開く音が止む前に、夜の街を駆け抜ける風が身体を包む。
一瞬なれど目に焼きついた光景を振り払うよう、瞼をきつく閉じて到着を待った。