02.(長期休暇と、)送迎依頼-2
「……」
深夜、25時の半ばも少し過ぎた頃。
卓越風通りから街の中央部へと数本通りを渡った先の東風通り。
とりわけ裕福な層が暮らすこの通りの道は綺麗に整備されており、真夜中に飲み歩く者も道端で醜態を晒す者もおらず、辺りは静まり返っている。
月の光だけが目立つ道。その光を避けるように、青年は一人、音もなく歩いていた。
(……ひまだな)
マスダは心の中で独りごちる。
宣言通りシクストは日付が変わると同時にさっさと立ち去ってしまい、それから約1時間。一人飲んではいたものの気分は上がらず、ただただアルコールを味わうだけの時間だった。そのアルコールも、夜風にあたればすぐに抜けてしまう。
(……依頼も大したことなさそうだし)
怪しげな依頼はしかし、サインをして詳細を見れば然程特別な依頼ではなかった。
深夜3時に、東風通りの邸宅に住む子供を指定場所に送り届ける。
それだけだ。
ふらふらと歩いていれば、件の邸宅へと辿り着いた。この通りの家らしく土地は広く、正門には真夜中でも守衛をひとり立たせている。
「——?」
しかし、ひとりだ。彼の周囲に罠はない。生命や魔力を感知するような魔法も仕掛けられていないことも、感じ取れる。
身につけているのも軽鎧であれば、死角から急所を突くことは容易かった。左手に遊ばせていた片手剣は、守衛に声を出すことを許さないままに役目を果たした。崩れ落ちそうな身体を軽く受け止め、塀にそっと凭れさせておく。
誰の監視の目も無いまま、敷地内に足を踏み入れる。月光に照らされる邸宅は荘厳な大きさを持ち、年季も感じさせた。正面からぐるりと裏手に回れば、生い茂った木々が風に煽られて激しく音を立てている。よく伸びた枝葉はバルコニーにかかり、いよいよ窓にぶつかりそうなほどだ。
「……」
マスダが枝に手を掛ける音が、木々の奏でる音に混ざって掻き消える。太い枝に軽く飛び乗ってしまえば、2階のバルコニーに辿り着くのは容易であった。
その窓の奥に、ひとりの気配を感じる。
手早く窓を開錠し、木の葉の飛び込まぬうちに身を滑り込ませる。立派なベッドの上に、不規則に上下する毛布の塊が転がっていた。
「起きてんのかい」
軽薄な声に、息を呑む音がミスマッチだ。
「この距離で寝たふり? 逃げりゃ良いのに」
頼りない砦は、マスダの片手であっさり取り去られた。身を縮こまらせてカタカタと震えるのは、ブロンドの髪をゆったりと結ぶ10代中頃ほどの少女だった。その碧眼は、青年の茶色の視線に射抜かれたように逸らさないでいる。
「……、……」
「喋れない、って情報は聞いてないしな。……もしもし、聞こえてる? あんた声出ないの?」
「…………あ、」
「出るじゃん」
「……こ、ころさないで」
「黙ってれば殺さないよ。お口チャック、できる?」
「っ、!」
「良い子」
こくこくと壊れたように頷く少女に、満足げに微笑む。そして取り上げたばかりの毛布を再び掛け直して、丸まっていた身体を担ぎあげると、
「よっと」
「ひっ」
入る時と同様にさっさと窓から部屋を後にして、そのまま敷地も東風通りも走り去る。少女のあげた小さな悲鳴は、マスダ以外に届くことはなかった。
「はい、ただいまーっと」
狭く古びたその家は、小屋と呼ぶにふさわしい出立ちだ。
誰もいない空間に挨拶をしながら、担いでいた荷物を椅子に下ろす。毛布を剥げば、顔を出した少女はその顔色を真っ青にしていまだ震えていた。
「なに、酔った? 水飲む?」
「——あ、あの、……わたしは、これから……殺されるの?」
「俺は殺さないってば。怪我もさせる予定はない。ちゃんと生きたままお渡しするよ」
「おわ、たし」
「そこから先は知らんけどね。はい、水」
かちゃ、と透明な液体に満ちたグラスを置きつつ、自分も喉を潤す。少女が手を伸ばす様子がないことなど気にする素振りも見せない。
「…………あ、」
「……思ったより順調過ぎちゃったなあ。お喋りでもしてよっか」
何ということもないように話しかける青年に、少女は察する。
——ここで青年の意思を変えねば、行き着く先は地獄だ。
——もっとも、変えた先も地獄かもしれないけれど。
「あの、……貴方は、わたしを攫うよう頼まれたのですか」
「そうだね。カディア・ローザイドさん16歳女性。ローザイド家の次女で間違いないよ」
「そう、ですか」
対象は少女——カディアで間違いなかった。間違っていたら、それはそれで命を奪われていそうだが。
「……わたしは、どうなるのでしょう」
「さあ? 良いように使われるか殺されちゃうか、何もされずに売られるか。家をゆする材料にはされるんじゃない?」
「…………」
やはり、待ち受けるのは少女にとって地獄でしかなかった。であれば、この男に依頼主への引き渡しをやめてもらう他ない。連れて来られるまでの身のこなしでも、身体能力に優れているのは感じ取れた。カディアは魔法の心得は多少あるが、その「多少」で失敗したら終わりである。本当に最後の手段としては考えているが、「お喋り」を続けてくれるうちは使うわけにはいかない。
口振りからして、依頼主と男の関係性は薄いのだろう。この仕事だけの付き合いと見ても良い、とカディアは感じた。
であれば、男の目的は依頼料——即ち、金なのだろう。
「……あのっ」
「ん?」
「お金は、わたしが払います。だから——」
「んー、信用問題もあるしなぁ。ていうかローザイドさん、金無いでしょ」
「……え、そ、そんなことは——」
「へえ。いくらくれるのかな」
「……7000R、程なら、すぐに」
どうしようもなく無理をした金額だ。
男の言う通りであった。表面上は取り繕っているが、ローザイド家は既に没落の一途を辿っている。しかしまだ、取り繕えている範疇だ。身なりや外での交流は今までと変わりないし、もとより家に招く側ではなかった。
……彼は、招かれざる客であった。しかし家を見て回るほど悠長な客ではなかったはずだ。
顔を伺っても、軽薄そうな笑みを浮かべるばかりである。
しかし7000Rは、貴族であろうと高額であると判断できる数字だ。間違いなく依頼料は超えるはずだと考えたのだが、
「安いな」
「……え、」
「あんたを渡さないと俺、依頼失敗した扱いになるわけよ。評判ガタ落ちするし仕事受けられなくなるかもだし、それ避けるなら依頼主殺さないとだし。殺すにしても、こんな依頼出す相手だよ。カディアちゃんと違ってそこそこ抵抗されそうじゃない? 裏に何人いるかも考えると、全然割に合わないな」
淀みなく羅列される言葉に打ちのめされそうになる。富裕層特有の汚さは理解できても、裏社会の事情は無知に等しい命のかかっている少女には、責め立てられているようにすら感じた。
「っごめんなさい、ごめんなさい……! あの、いくらなら、」
「さあ」
彼の求める金額は提示されない。
失敗した、と臓器の冷え切る感覚に思考が止まりそうになるが、金額の問題ではないのかもしれない、という考えには行き着けた。
停止しかける脳を必死に動かす。男の目的は金銭。しかし依頼主を裏切る選択肢は、金額を上乗せされようと選ばない。であれば、依頼主を考える。もちろんただの金目的や身に覚えのない怨恨の可能性もあるだろうが、果てしない可能性は今は切り捨てる。そも、没落する前も際立った富豪などではなかった。であれば、ローザイド家特有の何か。
「…………わ、わたしの家、古代のマジックアイテムの収集と解析を、していました」
「へー。たまに遺跡から見つかるやつ?」
家業を口にすると、予期せず食いつかれて思わず面食らう。しかし時間がいくら残っているかも分からないため、今度は脳と同時に乾きかけの口も必死に動かし始めた。
「そう、ですね。遺跡には罠や絡繰のような形で、残っていることも多くて……」
「あー、侵入者絶対殺す! みたいな殺意高い罠も多いよね」
「は、はい。それで……」
没落のきっかけは、信頼していた家の裏切りであった。良い交友関係を結べていたと思っていたのはこちらだけ。気がつけば向こうの家はもぬけの殻で、ローザイド家には莫大な借金が降り注いだ。
「ぜんぶ、ではないですけど……マジックアイテムや未発表の研究成果を売って、お金を工面していました」
「頑張らなくても人殺せたり、下手すりゃ兵器級のもあるし、そりゃ金になるか」
「まだ、あまりに危険なものは、手放してなくて。その……最近は特に、」
「?」
「遺跡調査で亡くなる方が、最近特に多いと耳にして。父も、うちの売ったものが悪用されているのではないかと……」
「ああ、まあ遺跡調査で事故は付き物だしね。だから護衛依頼も出るんだろうし——」
上手く話の舵を取ることができず、ただただ身の上話が舌の上を滑っていく。男の反応も世間話程度のものから変わらず……と落胆していたところで、男が口をつぐんだのでつい首を傾げてしまう。
「……?」
「ローザイド家、遺跡調査もするん?」
「あ、え、はい。調査の方は、雇っておりました」
「じゃあ危険なことも知ってるし、大体護衛つけることも知ってると。調査員だけで乗り込んで死ぬのは珍しいことじゃない。わざわざ話題にするのは、護衛つけた上で死んでるやつが多いからか」
「あ、あの」
「よし」
一方的に吐き出し終えると、マスダはひとつ手を叩いて立ち上がった。そして手にしていたコップの中身を一息に飲みほし、放っていた毛布をカディアの肩にかける。
「あの……?」
「時間だ。依頼主のとこ行くから、ついてきて」
「ついて? ひ、引き渡すのでは」
「やめた。気が変わった。——分かりやすく言おうか。あんたの依頼を7000Rで受けてあげる」
「…………え、」
「でもローザイドさん的にきついでしょ、7000R。依頼主から2500Rもらうためについてきてくれない? そしたら差額の4500Rで良いよ。殺り合うだろうけど手出しはさせないし、知らんと思うけどここスラム街近くだから留守番してても死ぬかもしれないし」
「あ、えっと、」
「一緒に行って怖い思いしながら4500R払うか、ここに残って7000R払うか、ここに残って死ぬかだよ」
逃げたら俺が口封じしちゃうけど、とさらりと足された第四の選択肢に身震いする。
何が起こったのか。ともあれ、最初の地獄は回避できたようであった。であれば、カディアの取れる選択肢はひとつだった。
「つ、ついていきます……!」
残っても死ぬかもしれないのであれば、安くなる方に乗るしかない。